円福寺。準西国稲毛三十三観世音霊場
円福寺の概要
曹洞宗寺院の円福寺は、青龍山と号します。円福寺は、益田駿河守満榮(永禄元年1558年没、法名圓福寺量海宗無)が開基となり、大永2年(1522)に創建、僧雪點(雪點・雪天、天正4年1576年寂)が開山したといいます。準西国稲毛三十三観世音霊場31番です。
山号 | 青龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 円福寺 |
住所 | 川崎市高津区下作延7-10-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
円福寺の縁起
円福寺は、益田駿河守満榮(永禄元年1558年没、法名圓福寺量海宗無)が開基となり、大永2年(1522)に創建、僧雪點(雪點・雪天、天正4年1576年寂)が開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による円福寺の縁起
(下作延村)圓福寺
村の東にあり、曹洞宗相模國高座郡遠藤村寳泉寺の末山なり、古は慧日山と號せしが、後蒼龍山に改む、今は又蒼字をかへて青龍山と書す、開基益田駿河守満榮、大永二年當院を起立し、僧雪點を以開山とす、雪點或は雪天とも書く、天正四年正月廿六日八十歳にして寂せり、是よりさき満榮は永禄元年六月十六日卒せり、圓福寺量海宗無と諡す、同郡清澤村能満寺に葬せり、今村民忠左衛門は其子孫なりと云、此後寛永十一年回禄にあひて、舊記等悉く烏有となる。其時地頭戸田六郎右衛門清信、益田が子孫市郎兵衛と云しものと議りて、本尊以下を造立せり、其後寛政七年再び丙丁の災に罹りて、記録以下いよいよ失へり、今客殿九間半に七間半南向なり、本尊釋迦木の坐像長一尺五寸許。
白山祠。堂の背後なる庭中にあり、小祠。
天神祠。客殿より三十間程北の方にあり、一間に一間半。
日向洞。客殿に向て三十間許左の方なる丘の側にあり、入る所は纔に四尺許なれども、洞の内は壘十壘許をしくべき程の廣さなり。
開山袈裟掛松。客殿に向て左の方にあり、大さ一圍半許高さ七八間直立せり。
辨財天窟。境内丘林の下にあり、客殿の南へ去こと一町許にあり、神體は四寸許の坐像なり、洞中常に泉ありて炎暑といへども涸ることなし、土人呼で女郎洞或は鐵漿洞とも呼ぶ、其名の起りを詳にせず。(新編武蔵風土記稿より)
円福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿