廣福寺。武州稲毛七福神の大黒天、準西国稲毛三十三観世音霊場
廣福寺の概要
真言宗豊山派寺院の廣福寺は、稲毛山と号します。廣福寺は、慈覚大師円仁が承和年間(834-848)に創建、稲毛三郎重成が中興したといいます。その後長辨(安貞元年1227年寂)が真言宗寺院に改めて中興したといいます。準西国稲毛三十三観世音霊場初番、武州稲毛七福神の大黒天です。
山号 | 稲毛山 |
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院号 | - |
寺号 | 廣福寺 |
住所 | 川崎市多摩区枡形6-7-1 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
廣福寺の縁起
廣福寺は、慈覚大師円仁が承和年間(834-848)に創建、稲毛三郎重成が中興したといいます。その後長辨(安貞元年1227年寂)が真言宗寺院に改めて中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による廣福寺の縁起
(上菅生村)廣福寺
村の東字松本に在、仍て松本山と號せり、近年稲毛三郎が舊迹なりとて稲毛と號すれど、これは後人の附會なるべし、新義真言宗にて多磨郡坂濱高勝寺の末寺なり、慈覚大師の開闢にして、遥の後長辨と云僧中興せりとぞ、このとき今の宗旨に改めしなるべし、長辨は後堀河院安貞元年正月十日化す、それより第二世忠蓮に傳へ、以後代々連綿して今に至れりとて合せ記せし位牌あり、されども此村の名主の話によれば、彼が先祖の起立にて纔に百四五十年に及べりと、今法流始祖とする所の法印定賢、元禄十六年八月十二日寂すと云もの、これ實の開山なるべし、それよりさき慈覺大師の開闢にして、後長辨といへるが中興せしと云ものは昔別にこの地にありし寺院のことにして、その廢跡を定賢が起立せしなるべし。
表門。西に向へり兩控作りなり。
客殿。表門を入て正面にあり、八間に七間、本尊五智如来は木の坐像にして長二尺ばかり、村民源兵衛と云ものの建立する所なり、昔の本尊は彌陀の立身にして長四尺餘なり、これも今客殿に安置せり。
寺寳。
不動画像一幅。永禄年中村の民田澤源兵衛繁義が寄附する所なり、弘法大師の筆と云傳ふ。
玉一顆。
鐘楼。客殿に向て左の方にあり、寶曆十一年鋳造の鐘にて圓径二尺餘、銘文あれど考證に益なければ略す。
観音堂。鐘楼の邊の小高き所にあり、三間四方にして欄干附なり、聖観音の木像立身にして長四尺ばかり行基の作なりと云、又同作なりとて木像の地蔵あり、別に龕に蔵して此堂に安ずこれも四尺許の立像なり、又稲毛三郎重成の像とて雲龍の文なる狩衣を著し、金の梨子打の烏帽子著たる坐像あり、長一尺五寸ばかり、これも近世の作と見ゆ、又小山田別當稲毛三郎等が木主あり、これら皆後世こしらへし物なることは論ずべくもあらすおもはる、この寺の背後に升形山とて古壘跡あるによりて、これも稲毛三郎に附會せしとての事なるべし、剰近き頃はいつ方よりか古き五輪の石塔を持来り、これを稲毛三郎が墓石なりと云ひ、この観音も三郎が守護佛なりと云へり、いづれもうけ難きものなり。
地蔵堂。二間に一間半、門外韋駄天の社地に向て石階の右二あり、地蔵の木像長六寸ばかり弘法大師の作なりと云。
裏門。北に向へり。(新編武蔵風土記稿より)
「川崎歴史ガイド」による廣福寺の縁起
平安時代に開かれた真言宗広福寺は鎌倉時代、この地の領主稲毛三郎重成により中興されたと伝わる。本堂には木彫の重成像、境内にはその墓といわれる五輪塔もある。(「川崎歴史ガイド」掲示より)
廣福寺所蔵の文化財
- 木造聖観音菩薩立像(神奈川県指定重要文化財)
- 木造地蔵菩薩立像(神奈川県指定重要文化財)
木造聖観音菩薩立像・木造地蔵菩薩立像
当寺は、真言宗豊山派に属し、慈覚大師(円仁)により、平安時代承和年間(八三四〜八四八)に創建されたと伝えられています。
当寺の本尊木造聖観音菩薩立像は、寄木造、玉眼入で、制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代初期ごろと思われます。当初は、全身布張りの上に彩色したものと思われますが、現在は下地塗りのみが残り、一見、素木造のように見えます。
また、木造地蔵菩薩立像は、寄木造、彫眼の量感にあふれた仏像で、制作様式は平安時代後期の特色をもっています。現在は全身布張りの上に彩色されておりますが、これは江戸時代に修理を加えた際のものと思われます。
これらの仏像は、昭和四十一年七月十九日、神奈川県重要文化財に指定されました。(川崎市教育委員会掲示より)
廣福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿