酒匂神社。箱根神社を勧請した駒形神社に八幡社などを合祀
酒匂神社の概要
酒匂神社は、小田原市酒匂にある神社です。酒匂神社は、明治14年駒形神社地に八幡神社を遷して酒匂神社と改称、その後八幡社、金山社、諏訪社、十二天社、白山社、雷電社、明神社、山王社、七夕社を合祀したといいます。駒形神社は、後鳥羽上皇が箱根神社に酒匂郷四十八町歩を寄進、当地が箱根神社の社領となったことから、富士上人参朝が箱根神社を勧請して安久5年(1149)に創建、駒形社と称したとされ、江戸期には駒形神社と八幡社とが、酒匂の鎮守とされていました。当社地周辺からは弥生時代の環濠集落や古墳時代前期の竪穴住居が発見されています。
社号 | 酒匂神社 |
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祭神 | 伊弉諾命、伊弉冊損命 |
相殿 | - |
境内社 | 八幡神社 |
祭日 | 神輿渡御4月の第1日曜日 |
住所 | 小田原市酒匂2-27-1 |
備考 | - |
酒匂神社の由緒
酒匂神社は、明治14年駒形神社地に八幡神社を遷して酒匂神社と改称、その後八幡社、金山社、諏訪社、十二天社、白山社、雷電社、明神社、山王社、七夕社を合祀したといいます。駒形神社は、後鳥羽上皇が箱根神社に酒匂郷四十八町歩を寄進、当地が箱根神社の社領となったことから、富士上人参朝が箱根神社を勧請して安久5年(1149)に創建、駒形社と称したとされ、江戸期には駒形神社と八幡社とが、酒匂の鎮守とされていました。
境内掲示による酒匂神社の由緒
酒匂神社の由来
酒匂神社の原神は、大和朝末期(六五〇頃)大和朝から派遣された統治者が守護神として「八幡社」を祀ったのが最初であり、この頃、高麗民族が渡来して、先進文化、特に棚機を広め「棚機社(七夕社)」等も祀られていた。
平安末期(一一三〇頃)後鳥羽上皇が箱根権現に、酒匂郷四十八町歩を寄進した。その後、安久五年(一一四九)に、箱根権現の富士上人参朝が、寄進された地「免耕地(現在地)」に、箱根五年を勧請し「駒形社」を祀った。
その駒形社についての記述は、承和二年(一三四六)の「古文書」に小田原松原大明神と並んで酒匂駒形として初めて登場している。「新編相模風土記稿」には天文二十二年(一五五三)七月二日に岡部出雲守廣定と酒匂郷檀那(小島左衛門太郎正吉)が、それぞれ懸仏(銅鏡)を寄進し、そこに駒形大権現と記されている。「小田原衆所領役帳」にも北条幻庵(早雲の子)の所領として四十貫弐百五十文酒匂駒形分とある。また先の「風土記稿」に元和七年(一六二一)に城主の安部備中守正次が五石を寄進したとされている。
その後、明治初年に始まるさまざまな神仏分離令により、近くの八幡社を、明治十年四月に駒形社の場所に移して酒匂神社とした。祭神を伊弉諾尊、伊弉冉尊。駒形社の祭神、鸕鶿草葺不合尊と定め、八幡社、金山社、諏訪社、十二天社、白山社、雷電社、明神社、山王社、七夕社を合祀した。
例祭は、七月七日に駒形社・八幡社の神輿が村中を巡行していたが大正末期に四月七日に変更した。(現在は四月の第一日曜日)(境内掲示より)
新編相模國風土記稿による酒匂神社の由緒
(酒匂村)
駒形社
村の鎮守なり、祭神鸕鶿草葺不合尊(木立像、長二尺、)又當社御生題と(按ずるに、正體の誤なるべし)號して、銅鏡面に像を鑄出せしものを、別當寺に置、天文廿二年、岡部出雲守廣定の寄附する所なり、
同時小島左衛門太郎正吉も又生題二面を寄附す、こは中古失へり、(村民徳右衛門家乗に、其銘の寫あり奉寄進駒形大權現御生題、相州西郡酒匂郷、檀那小島左衛門太郎正吉、天文廿二癸丑七月二日、徳右衛門は即正吉が裔なり、)
按ずるに、【北條役帳】幻庵内室の知行中に、四十貫二百五十文酒匂内駒形分と見ゆ、即當社の事なり、本地十一面觀音(別當寺の本尊是なり、)例祭七月七日、(當社及八幡の神輿を曳て村中を巡行す、)
元和七年、領主安部備中守正次、先規に任せ供免五石を寄附す、
(徳右衛門家乗に、寄附状の案あり、曰、相州西郡酒匂郷、駒形權現社領之事、田畑五石地成、但御供免、御祭免、右之分如前々之相違あり問鋪物也、元和七年十二月、安部備中守内、内藤覺右衛門印、下宮理右衛門印、小島主水へ参とあり、)
今も社地の外供免五石六斗餘の除地を附す、幣殿・拝殿等あり、寛文五年の鰐口を掲ぐ、社地に供所及神木古松一株あり(圍一丈八尺)、南蔵寺の持、
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八幡社
是も鎮守とす、例祭駒形社と同じ、神木に松樹一あり(圍一丈一尺五寸)、是も南蔵寺持、下並同、
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金山社
諏訪社
雷電社
神明社
山王社二
十二天社(新編相模國風土記稿より)
神奈川県神社誌による酒匂神社の由緒
縁由及創立年月等不詳。初め駒形神社と称し、明治六年七月三十日旧足柄県に珍いて村社に定められる。明治十年四月従来当村に勧請せる八幡社、諏訪社、金山社、電明神社、十二天社、神明社、白山社二社、日枝社と合併し、酒匂神社と改称。昭和七年四月十二日神神饌幣帛料進神社に指定される。(神奈川県神社誌より)
酒匂神社所蔵の文化財
- 酒匂神社周辺にひろがる弥生時代の環濠集落
酒匂神社周辺にひろがる弥生時代の環濠集落
現在地周辺は、相模湾の海岸線に沿って形成された砂丘上に位置する小田原市No47遺跡(酒匂遺跡群)に位置し、近年18地点を超える発掘調査が行われています。この説明版から約90m西にある、現在の小田原市保健センター周辺にはかつて鎌倉幕府の「浜辺御所」という将軍の宿泊・休憩施設があり、小田原の中心地のひとつとして栄えたとされていますが、近年の発掘調査によって、酒匂は弥生時代から多くの人が行き来した集落があったことがわかってきました。
現在地から約120m南西の大経寺で行われた、酒匂北川端遺跡Ⅴ地点の調査では、弥生時代後期の環濠が見つかりました。環濠とは今日中行と墓域を分けるために集落の周りに作られた溝です。この環濠の中からは、東海地方の西遠江地域や東三河地域に系譜をたどれる弥生土器が見つかりました。これらの土器は、延宝の地域の人々との交流が見られる点で重要な発見となりました。さらに、この環濠から約70m東で行われた酒匂北中宿遺跡第Ⅷ地点の調査では、環濠とほぼ同じ時期の弥生時代後期から古墳時代前期の竪穴住居が見つかりました。
このことから、酒匂神社の南東には環濠で周りを囲まれた集落が弥生時代に栄えていたことがわかりました。(小田原市教育委員会掲示より)
酒匂神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌