高田八幡神社。小田原市高田の神社
高田八幡神社の概要
高田八幡神社は、小田原市高田にある神社です。高田八幡神社の創建年代等は不詳ながら、源頼朝が寿永3年(1184)に当地高田を鶴岡八幡宮に寄進したことから、高田が鶴岡八幡宮社領となった際に勧請されたのではないかとされます。江戸期には若宮八幡社と称し、村の鎮守として祀られ、明治維新後の明治42年別堀稲荷神社を合祀しています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 品陀別命、宇迦之魂神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 10月9日 |
住所 | 小田原市高田198 |
備考 | - |
高田八幡神社の由緒
高田八幡神社の創建年代等は不詳ながら、源頼朝が寿永3年(1184)に当地高田を鶴岡八幡宮に寄進したことから、高田が鶴岡八幡宮社領となった際に勧請されたのではないかとされます。江戸期には若宮八幡社と称し、村の鎮守として祀られ、明治維新後の明治42年別堀稲荷神社を合祀しています。
新編相模国風土記稿による高田八幡神社の由緒
(高田村)
若宮八幡社
村の鎮守なり、(按ずるに、古當村鶴岡八幡社領たりしを以て、土地神として祀りしなり、)圓蔵院持、
△末社。神明、諏訪、稲荷、天神、天王
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稲荷社
村持、
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神明社
村民持、下同、
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駒形八幡社
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神宮司社
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(別堀村)
稲荷社
鎮守とす、例祭二月初午、村持、社地に古松あり、(廻り一丈三尺、)
△末社。神明 諏訪 幸ノ神(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による高田八幡神社の由緒
風土記鶴岡文書に、寿永三年二月頼朝高田を鶴岡八幡宮社領に寄附とあり、古老の伝説に依っても其年月日を知る者はないが、高田を同宮の社領に寄附後、同合神霊を勧請申したとの伝説は氏子皆之を伝承している。同村別堀村社稲荷社(字迦之魂神)を明治四十二年十一月三十日官命に依って当社に合祀した。(「神奈川県神社誌」より)
高田八幡神社所蔵の文化財
- 若宮八幡宮周辺の遺跡
若宮八幡宮周辺の遺跡
若宮八幡宮周辺の遺跡
若宮八幡宮周辺で最初に人びとが生活するようになるのは、3世紀前半頃の弥生時代後期のことです。続く古墳時代前期まで、継続的に大規模な集落があったことが、発掘調査によって明らかになっています。
土器は、煮炊きや食料の貯蔵など、生活のさまざまな場面で用いられましたが、若宮八幡宮東側の高田宮町遺跡第Ⅱ地点の調査では、肩の部分に2つの口がついた全国的にも珍しい壺形土器が見つかっています。また、北側の高田北之前遺跡第Ⅱ地点では、破壊のため先端部分だけですが、磨製石剣と呼ばれる道具が出土しています。実用的なものでないため、祭祀用の石器と考えられます。
さらに、中央集権的な国家の仕組みがつくられる、古墳時代後期~奈良・平安時代の集落も見つかっています。奈良東大寺の正倉院には、「高田郷」として、高田の地名が確認できる8世紀の文書が伝わっています。永塚周辺や千代には、郡家(地方役所)や寺院が造られ、高田郷は地域の中心的役割を果たしていました。
寺院や郡家の近くに位置していたため、それらと関係するような遺構、遺物も検出されています。高田北之前遺跡第Ⅱ地点では、8世紀前半の大型の井戸が検出されているほか、当時の官人が腰帯に付けていた丸鞆と呼ばれる石製の帯飾りが出土しています。また、若宮八幡宮南側の高田宮町遺跡第Ⅳ地点では、吉祥句である「千万」と墨書された灰釉陶器が見つかっています。(境内掲示より)
高田八幡神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿