上杉龍若丸墓|降伏の使者上杉龍若丸主従の供養塔
上杉龍若丸墓の概要
上杉龍若丸墓は、小田原市にある名所旧跡です。上杉龍若丸墓は、降伏の使者として小田原に赴いた上杉龍若丸とその侍臣6名の供養墓です。群馬県の山内城に拠っていた山の内上杉憲政は、天文21年(1552)北條氏康の攻撃にあい、降伏の使者として上杉憲政の嫡男龍若丸を派遣、北條氏康はこれを認めず、家臣の神尾治部右衛門に殺害を命じ、龍若丸主従は松原で殺害されたものの、その後神尾治部右衛門は癩病に罹患し亡くなったことから、当地住民は祟りを恐れて、五輪塔を造立し供養したといいます。
名称 | 上杉龍若丸墓 |
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区分 | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 小田原市東町4-1 |
備考 | - |
上杉龍若丸墓の由緒
上杉龍若丸墓は、降伏の使者として小田原に赴いた上杉龍若丸とその侍臣6名の供養墓です。群馬県の山内城に拠っていた山の内上杉憲政は、天文21年(1552)北條氏康の攻撃にあい、降伏の使者として上杉憲政の嫡男龍若丸を派遣、北條氏康はこれを認めず、家臣の神尾治部右衛門に殺害を命じ、龍若丸主従は松原で殺害されたものの、その後神尾治部右衛門は癩病に罹患し亡くなったことから、当地住民は祟りを恐れて、五輪塔を造立し供養したといいます。
境内掲示による上杉龍若丸墓について
上杉龍若丸墓
関東管領平井城主、山の内上杉憲政の嫡男、龍若丸(十一才又は十三才)は天文二十年(一五五一)平井城落城前、北条氏康(三代)の攻撃を止めさせ、所領を安堵するため、降伏の使いとして、従臣六人とともに、小田原に出向いてきた。
氏康は、龍若丸が幼稚であったが大敵の嫡男のため、家臣の神尾治部右衛門に首を刎ることを命じ龍若と従臣は一色の松原で磔にかけられた。
龍若を斬殺した神尾治部右衛門は、癩病にかかり、まもなく死亡した。
これを知った小田原町民は龍若に深く同情し、五輪塔を立て祀り、供養をしました。(群馬県藤岡市西平井平井城址保存会掲示より)
新編相模国風土記稿による上杉龍若丸墓について
(山王原村)
上杉龍若丸墓
戎社の側、海岸丘上にあり、小笹生茂りし中に、方二間の社處を墳所とし、五輪塔六基並び立り、中央なるは大にして、餘は皆小なり(大なるは高三尺、小なるは二尺)、土人是を龍若稲荷と唱へ、若手を振るゝ事あれば、必祟ありとて甚敬憚す、按ずるに天文二十一年北條氏康、管領上杉憲政の嫡男、龍若丸を殺し、且憲政の家人、妻鹿田新助等六人を、一色の松原にて刑せしことあり、此地は即一色村松原の西に接して、古は一圓に松林なりしと云ば、此墳上上杉龍若丸の墓なること明るけし、中央なるは龍若丸の印にて、餘は妻鹿田等の塔なるべし(【鎌倉九代記】曰、管領憲政の嫡男龍若殿、今年十三歳、父憲政打捨てゝ越後に落行給ひければ、御局の子妻鹿田新助二男長三郎・三男三郎・伯父久里采女正・其子與右衛門、御局共に六人内談し、龍若殿を北條へ渡し、降人に出たりける、氏康翌日早朝に、神尾治部右衛門に仰せて、御首を討せらる、又石巻隼人正の仰せて、御局を始めとして悉く搦取、後代の見懲しめとて、一色の松原に引出し、磔けにぞかけられける、鎌倉九代後記曰、妻方兄弟九里等、氏康へ對して忠あると雖ども、譜代の主へ不義なりとて、遂に皆首を刎らる、)(新編相模国風土記稿より)
上杉龍若丸墓の周辺図