満江御前の墓|曽我兄弟十郎祐成・五郎時致の母の墓
満江御前の墓の概要
満江御前の墓は、小田原市にある名所旧跡です。満江御前の墓は、仇討ちで著名な曽我兄弟十郎祐成と五郎時致の母の墓です。満江(万却)御前は、地頭河津三郎祐泰と再婚し、三人の男子を出生、河津三郎祐泰が領地争いにより非業の死を遂げた後、地頭曽我太郎祐信と再婚、十郎・五郎兄弟が父の敵の工藤祐経を仇討した後、夫の祐信と共に出家し曾我別所に大御堂を建立、正治元年(1199)兄弟の七回忌の五月二十八日に逝去したといいます。
名称 | 満江御前の墓 |
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区分 | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 小田原市曽我別所 |
備考 | - |
満江御前の墓の由緒
満江御前の墓は、仇討ちで著名な曽我兄弟十郎祐成と五郎時致の母の墓です。満江(万却)御前は、地頭河津三郎祐泰と再婚し、三人の男子を出生、河津三郎祐泰が領地争いにより非業の死を遂げた後、地頭曽我太郎祐信と再婚、十郎・五郎兄弟が父の敵の工藤祐経を仇討した後、夫の祐信と共に出家し曾我別所に大御堂を建立、正治元年(1199)兄弟の七回忌の五月二十八日に逝去したといいます。なお城前寺は、曾我太郎祐信の開基とされます。
境内掲示による満江御前の墓について
満江(万却)御前の墓
満江御前は、日本の三大仇討の一つとして名高い曽我兄弟十郎祐成と五郎時致の母の墓である。
伊豆の狩野親光の三女で、最初の夫は伊豆の国司代の源佐衛門尉仲成で、一男一女を生んだが四年にして離別した。
その後、伊東祐親の嫡男河津の庄の地頭河津三郎祐泰と再婚し、三人の男子を出生した。
兄は幼名一万、後の十郎祐成で、弟は箱王、後の五郎時致で、末弟は祐泰の死後誕生の律師坊実永である。
一族の領地争いが起因で夫の祐泰は非業の死を遂げ、舅伊東祐親のすすめにより曽我の庄の地頭曽我太郎祐信の夫人となる。
安元二年(1176)満江三十歳位。十郎・五郎の兄弟が冨士の裾野で父の敵の工藤祐経を仇討した後、建久六年(1195)に夫の祐信と共に出家し、当地の曽我別所に大御堂を建て、兄弟の霊を供養してきたが正治元年(1199)兄弟の七回忌の五月二十八日奇しくも没した。
戒名は、祟清院岩高恩大姉。この年満江は五十歳位だったと言う。(境内掲示より)
満江御前の墓の周辺図