城前寺。小田原市曽我谷津にある浄土宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

城前寺。曽我太郎祐信を開基とする寺院

城前寺の概要

浄土宗寺院の城前寺は、稲荷山祐信院と号します。城前寺は、曽我兄弟の仇討ちで著名な曽我太郎祐信(祐信院殿曾我城主長運徹眞居士)を開基として、叔父の宇佐美禅師が、曽我太郎祐信の居城の追手に当る当地に創建したと伝えられ、その後鎌倉光明寺二世の弟子三譽故念が開山したといいます。足柄三十三観音霊場7番です。なお、当寺境内は、曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点と称され、縄文時代後期の住居や縄文土器等が発見されています。

城前寺
城前寺の概要
山号 稲荷山
院号 祐信院
寺号 城前寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 小田原市曽我谷津592
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



城前寺の縁起

城前寺は、曽我兄弟の仇討ちで著名な曽我太郎祐信(祐信院殿曾我城主長運徹眞居士)を開基として、叔父の宇佐美禅師が、曽我太郎祐信の居城の追手に当る当地に創建したと伝えられ、その後鎌倉光明寺二世の弟子三譽故念が開山したといいます。本堂前の阿弥陀如来座像は、赤穂義士の一人吉田忠左衛門兼亮の遺児で当寺14世となった到誉達玄和尚が、元文元年(1736)に造像したものだそうです。

境内掲示による城前寺の縁起

曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。
建久4年(1193)富士の裾野で兄弟が父の仇、工藤祐経を討った後、叔父の宇佐美禅師、その遺骨を携え此の地に来て庵を結び、兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられる。
なを、この討入りの時、兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので、仇討ちの日に当る5月28日には、この古事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりが行われるが類例の少ない祭であるので有名である。
境内には、十郎・五郎・父祐信・母満江御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛け、笛を鳴らした忍石・坪内逍遥筆で歌舞伎俳優中寄附の兄弟の記念碑等のほか各種ゆかりの品がある。
なを、4人の墓の建つ墳丘は、曽我城の土塁跡である。(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による城前寺の縁起

(曾我谷津村)
城前寺
稲荷山祐信院と號す、浄土宗、(芝増上寺末、)開山三譽故念、(注釈を読む)
開基曾我太郎祐信、(牌に祐信院殿曾我城主長運徹眞居士、正治二年七月朔日と刻す、)居城の追手に當て當寺を建つ、故に此寺號あり、本尊彌陀、(木座像、長二尺七寸、惠心の作、祐信の念持佛と傳ふ、)客殿に曾我兄弟及遊女虎の木像を置、其圖左の如し、又河津三郎祐泰、(牌に玄峯院殿玄劔哲霜大居士と彫れり、)二宮太郎朝忠妻、(牌に相心院安室二宮大姉と記す、【曾我物語】に、河津三郎に三人の子あり姉は二宮太郎朝忠に嫁すと有は、即祐成が姉なり、)祐信妻(牌に祟清院浄岩高恩大姉と記す、)等の牌を安ず、
【寺寶】
左に載る數品、皆信用なしがたけれど、古より口碑に傳ふる来由あれば、姑く是を載す、
△不動像一軀、(弘法大師作、曾我兄弟の守本尊なりと云、)
△旗二流、(是も兄弟の用ゐしものと云、地性はぬめ絹に類し、圖の如き模様を縫出せり、長四尺三寸五分、幅一尺八寸、其圖左の如し、)(注釈を読む)
△大磯虎文一通(注釈を読む)
△鐘樓 享保三年の鑄鐘を掛、
△淡島社 神體は虎の護持神と云、
△彌陀銅像 元文元年の鑄造なり、
曾我十郎祐成木像(長八寸五分前に牌を置高崇院殿峯岩良雪大禅定門、建久四丑年五月廿八日と彫る、)
同五郎時致木像(長同上、牌に鷹嶽院殿士山良富大居士、建久四丑年五月二十九日と刻す、)
遊女虎の木像(長八寸三部、牌に陽春院浄譽故心大姉とあり、)(新編相模国風土記稿より)


城前寺所蔵の文化財

  • 曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点

曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点

この説明版の北側の城前寺境内で行われた曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点の調査では、平成18年(2006)に「柄鏡形敷石住居」という、縄文時代後期の住居が見つかりました。住居の出入口部分が外に張り出し、上から見ると柄鏡のような形をし、床面には平らな河原石が敷かれるという特徴を持ちます。中央には浅鉢形土器を地面に埋め込んだ炉が作られました。
曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点で発見された土器は、形や文様の特徴から「堀之内式」・「加曽利B式」と名付けられており、今から約3,500年前に作られました。土器の内側まで文様が付けられ、器壁を薄く光沢が出るまで磨き上げるなど、縄文時代後期の土器はその形や文様の付け方が変化します。曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点では、この地域で暮らした人々の生活を支えた縄文土器が多く見つかりました。(小田原市教育委員会掲示より)

城前寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「川東仏教会寺院名鑑」