二宮尊徳遺髪塚|大山道沿いに作られた遺髪塚
二宮尊徳遺髪塚の概要
二宮尊徳遺髪塚は、小田原市にある名所旧跡です。二宮尊徳遺髪塚は、永らく二宮尊徳に仕えていた川久保民次郎が、二宮尊徳の死去にあたり、遺髪を実家に持ち帰り、川久保民次郎の遺言により作られた遺髪塚です。二宮尊徳の母よしの実家が川久保家であったことから、川久保家の家運が傾いた際には二宮尊徳が再興を図り、二宮尊徳の指導により民次郎が川久保家の当主となったといいます。当地前は大山不動寺・阿夫利神社へ通じる道で、大山道と呼ばれています。
名称 | 二宮尊徳遺髪塚 |
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区分 | 市指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 小田原市曽我別所 |
備考 | - |
二宮尊徳遺髪塚の由緒
二宮尊徳遺髪塚は、永らく二宮尊徳に仕えていた川久保民次郎が、二宮尊徳の死去にあたり、遺髪を実家に持ち帰り、川久保民次郎の遺言により作られた遺髪塚です。二宮尊徳の母よしの実家が川久保家であったことから、川久保家の家運が傾いた際には二宮尊徳が再興を図り、二宮尊徳の指導により民次郎が川久保家の当主となったといいます。当地前は大山不動寺・阿夫利神社へ通じる道で、大山道と呼ばれています。
境内掲示による二宮尊徳遺髪塚について
尊徳二宮金次郎の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。当時、川久保家は太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
天保一一(一八四〇)年、尊徳は川久保家の再興をはかることになり、市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。その結果もっともすぐれた成果を上げた民次郎が川久保家をつぐことになった。この民次郎は下野国の佐倉町(栃木県二宮町)仕法時代から、永らく尊徳に従者として仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の與三郎が昭和十三年にその遺志を継いで建てたものである。(小田原市教育委員会掲示より)
境内掲示による大山道について
大山は神奈川県の最高峰のひとつで、雨降山とも呼ばれた。江戸時代にはその中腹の不動寺の鉄不動が広く尊崇され、明治以降は阿夫利神社が信仰されている。
相模平野の農村では雨乞いなど農業の守護が祈られ、漁村では船の上からも遥拝される山なので海上安全の目的で信仰された。江戸から講を作って参拝団がくるのは、春秋の目的を兼ねていた。
その大山への参詣道が「大山みち」で、相模平野の各地から多くのルートがあった。曽我の大山みちは、千代-曽我原-殿沢川-曽我別所-六本松峠-田中のルートである。(小田原市教育委員会掲示より)
二宮尊徳遺髪塚の周辺図