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誓願寺。小田原市浜町にある浄土宗寺院

誓願寺の概要

浄土宗寺院の誓願寺は、湘王山と号します。誓願寺は、鎌倉光明寺の学徒攝果が、攝取院誓誉妙香尼(勢州の人)及随逐の尼妙祐から運慶作阿弥陀如来(の首)を譲り受けて創建したといいます。足柄三十三観音霊場19番霊場です。

誓願寺
誓願寺の概要
山号 湘王山
院号 -
寺号 誓願寺
本尊 阿弥陀来像
住所 小田原市浜町1-8-16
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



誓願寺の縁起

誓願寺は、鎌倉光明寺の学徒攝果が、攝取院誓誉妙香尼(勢州の人)及随逐の尼妙祐から運慶作阿弥陀如来(の首)を譲り受けて創建したといいます。

新編相模国風土記稿による誓願寺の縁起

(一町田町)誓願寺
浄土宗、京知恩院末、妙香山攝取院と號す。本尊三尊弥陀、開山攝果(鎌倉光明寺の学徒、勢州の人、寂誉と號す、永禄十二年六月十日八十八歳卒、按ずるに浅草誓願寺記には、見誉善悦を當寺の開山と載す)。
本尊縁起(宝永七年七世真誉記)を閲するに、攝取院誓誉妙香尼(勢州の人)及随逐の尼妙祐と云もの、諸国巡歴の刻、偶此地に寓宿す、尼兼て運慶作弥陀の御首を護持せしに、告夢あり、明旦一僧来らん、導師として、當所に一宇を建べしとなり。果して翌旦僧攝果来る、尼是に於て果に謀り、彼御首を付属せしかば、果即肯して萬町邊に庵を結ぶ。これ永正三年三月十七日の事なり。其後北條氏康の臣、安藤豊前守良整、果に帰依す果或時勝地を求て、一宇を建立せん素願を述しかば、良整氏康に言上し、今の寺地を給ふ。永禄六年四月上旬、殿堂落成す。此時氏康の局助力して、弥陀の形体を興立せり、茲に於て鎌倉長勅法眼宗珠、形体を彫刻し局よりの消息を腹籠とせしとなり(其文曰、今度如来御さいかうに附、金子并銀一貫七百目、しんし参らせ候、いの四月廿四日、せいくわん寺和尚、つぼねより、此文真誉再興の序披見云々と記録す)、是像は今厨子に納め、本尊の側に安ず(長二尺五寸)。天正元年三月、當寺の僧庭林、戯讒をなして、北條氏直に見参せしこと、「五代記」に載す(曰、天正元年三月五日の暮かたに小田原浦に小船四五船浮びたるを見て、すは海賊来ると一人云ければ、町騒ぎ動揺し、敵船を見んと、皆人濱へ走り出る、侍衆は此由を聞、旗をさし駒い鞭打て、濱地へ乗出す、折節小雨瀧ぎたり、誓願寺の庭林と云坊主、傘をさし敵船を見物せんため、濱へ出る所に武者一騎さし物さし、敵船近き汀へ馳向ひ、是へ一陣に進出たる二本傘は、相模の国の住人高山大膳大夫也船をこぎ付勝負を決せよと名乗と雖も、釣船にて何事やらんと音もせず、誓願寺の坊主是を見て、から笠を指上、是へ二陣に進出たる一本傘の法師武者をば、如何なる者と思ふらん、忝けなくも浄土宗誓願寺の住僧庭林なり、敵に於ては能敵、船を漕付、引組て勝負を決せよと名乗、皆人聞てどっと笑って退散す、其夜氏政の御前へ各夜詰に候す、氏政曰、今暮町騒ぎたる由何事ぞ、伊田部岡江雪入道申て云、暮に及て汀に釣船四五船浮び候を、何者か海賊来と申、町騒ぎ、侍共も濱へ馬を乗出し、誓願寺の坊主かく名乗候と申ければ、氏政聞召其庭林は當意即妙を吐、きてん坊主なり、法門もさぞしかならんと、興じさせ給ふ、其頃氏直十二歳、国主殿と申き、明る日此由聞召、其坊主一目見ん、速て参れと有しかば、御使者誓願寺へ参じ、坊主を召具し登城す、若者の御前へ急ぎ召出され、昨晩の如言葉を違へず名乗候へと、から笠一本取出し、せんをささし、坊主に渡す、坊主庭へ飛でをり、から笠を指上、是へ二陣に進みたる一本傘の法師武者をば、如何なる者と思ふらん、忝けなくも浄土宗誓願寺の住僧庭林なり、敵に於ては能敵、舟を漕付引組て勝負を決せよと名乗、国王殿聞召、大きに笑せ給ひ、頗る御褒美有之、御手に持せ給ひたる扇を下されたり、坊主今江戸へ来て、誓願寺の脇寮にあり、庭林坊と名付、此義虚言にあらず)。
二世魯永(見蓮社東誉)文禄二年江戸誓願寺(浅草誓願寺)を開基す(浅草誓願寺記には、魯水小田原住職の頃、文禄元年東照宮大久保石見守を上使として、江府へ可引移旨被仰付云々)。
子院廃蹟。真養院、側に井あり、白蛇水と云、北條氏茶水となせしと云。
閻魔堂。薬師堂。観音堂。
鐘楼。鐘は寛永二年八月鋳造。(新編相模国風土記より)


誓願寺の周辺図


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