真福寺。小田原市早川にある真言宗東寺派寺院
真福寺の概要
真言宗東寺派寺院の真福寺は、瑠璃山薬師院と号します。真福寺は、万寿元年(1024)に創建、覺應が開山したと伝えられ、当寺観音堂の聖観世音菩薩像は平安時代の作と推定されています。文永元年(1264)に鎮海が再建したとされます。中興開山当初早川山如意輪寺東照院と号していたものの、大王山宗臨寺吉祥院と改号、天文21年(1552)現寺号に改めたといいます。
山号 | 瑠璃山 |
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院号 | 薬師院 |
寺号 | 真福寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 小田原市早川892 |
宗派 | 真言宗東寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
真福寺の縁起
真福寺は、万寿元年(1024)に創建、覺應が開山したと伝えられ、当寺観音堂の聖観世音菩薩像は平安時代の作と推定されています。文永元年(1264)に鎮海が再建したとされます。中興開山当初早川山如意輪寺東照院と号していたものの、大王山宗臨寺吉祥院と改号、天文21年(1552)現寺号に改めたといいます。
新編相模国風土記稿による真福寺の縁起
(早川村)
眞福寺
瑠璃山薬師院と號す、(古義眞言宗、國府津村寶金剛寺末、)古は早川山如意輪寺東照院と號せしを、後大王山宗臨寺吉祥院と改號し、又天文二十一年、今の號に改むと云、本尊不動、開山覺應、萬壽元年建、(長暦元年九月廿九日卒、)中興開山鎮海、(文永四年十二月廿日卒、)文永元年再建す、寺寶に北條氏直の禁制書ありしが、今は失へり、
△薬師堂。寛永六年の鰐口をかく、薬師は坐像なり、(長一尺三寸五分、行基作、)
△觀音堂。聖觀音を置、(聖徳太子作、長三尺二寸、)(新編相模国風土記稿より)
境内掲示による真福寺観音堂について
早川観音
ここは、俗に早川観音と呼ばれている。御本尊は聖観世音菩薩立像、一木造り、当初の状況は不明だが、現在は彩色も箔もない。お顔は平滑、伏目(彫眼)で、全体に穏やかな技法である。衣文の襞は摩耗しているが、左右の腕と手は近時修理されている。藤原時代の様式をもつかなりすぐれた像で、南都佛師の作とも言われている。誠に端正なお姿である。古義真言宗、真福寺の秘仏である。
この観音さまには、檀家のお婆さん達が交代で堂守りと、お茶の接待をする茶店がある。最近までここで売られた黒砂糖を使った素朴な昔ながらの駄菓子が名物で、味もよく好評だったが今は絶えているのが惜しまれる。復活を望む声も多い。
毎月の縁日、17・18日には串団子などもあって、善男善女が頬張る風景は、この観音さまならでは見られない風情がある。ここは1年中香煙が絶えず、特に、正、五、九の各月の17日は例大祭であり、大護摩供もあり、かなりの賑わいである。
真福寺境内には、幕末の箱根山崎の戦いで活躍した小田原藩士、鏡信一刀流の青年剣士高橋藤太郎恒知の墓所もある。(境内掲示より)
真福寺所蔵の文化財
- 真福寺のタブノキ(小田原市指定天然記念物)
- 真福寺のイトヒバ(小田原市指定天然記念物)
真福寺のイトヒバ
イトヒバは、サワラの一変種で、庭園でよく植栽されます。
この木は本堂の東側にあり、主幹は地上四メートルのところで分岐し、五本の支幹となって約十メートル近くまでまっすぐ伸び、一種独特な樹形を整えています。
イトヒバは市内の寺院に多く植えられている木ですが、この木はそれらの中でも最大の古木です。(小田原市教育委員会掲示より)
真福寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿