勝福寺。小田原市飯泉にある真言宗東寺派寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

勝福寺。唐から渡来した観音像、弓削銅鏡開基

勝福寺の概要

真言宗東寺派寺院の勝福寺は、飯泉山と号します。勝福寺は、宝亀元年(770)に弓削銅鏡が流罪で下野へ赴く途次、孝謙天皇より拝領した唐国伝来の十一面観音像を千代に奉安、この観音像は僧艦和が天平勝宝5年(753)に来日した際、孝謙天皇に献上したものだといいます。その後当地に移転し飯泉山勝福寺と号しました。坂東三十三所の5番として著名で、多くの参詣を受けていたことから、国府津から当寺に通ずる道は巡礼街道と称されてきました。関東百八地蔵霊場96番です。

勝福寺
勝福寺の概要
山号 飯泉山
院号 -
寺号 勝福寺
本尊 釈迦如来像
住所 小田原市飯泉1161
宗派 真言宗東寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



勝福寺の縁起

勝福寺は、宝亀元年(770)に弓削銅鏡が流罪で下野へ赴く途次、孝謙天皇より拝領した唐国伝来の十一面観音像を千代に奉安、この観音像は僧艦和が天平勝宝5年(753)に来日した際、孝謙天皇に献上したものだといいます。その後当地に移転し飯泉山勝福寺と号しました。坂東三十三所の5番として著名で、多くの参詣を受けていたことから、国府津から当寺に通ずる道は巡礼街道と称されてきました。

境内掲示による勝福寺の縁起

飯泉山勝福寺(通称飯泉観音)
飯泉山勝福寺は、真言宗東寺派に属し、十一面観音を本尊とする。創立は、奈良時代の頃で、弓削道鏡が流されて下野に赴くとき、千代の里に寺を建立し、孝謙天皇より賜った唐国伝来の観音像を安置したのに始まると伝えられる(千葉山弓削寺)。
後に寺が焼けて当地に移され、飯泉山勝福寺と称した。板東33観音の5番札所としても有名で、国府津の親木橋から当寺までの道路は巡礼街道と呼ばれている。
棟札によれば、現在の本堂は宝永3年(1706)に再建されたもので、江戸初期頃の古式をとどめた地方色豊かな建物である。
本寺にまつわる伝承として、曾我兄弟が仇討祈願のために日参し、五郎が百人力、十郎が十人力を授かり、富士の裾野で仇討ちに成功したことや、講談で有名な雷電為右衛門が、田舎相撲の大岩大五郎を倒したことがある。また、二宮尊徳が少年時代の頃、旅僧から観音経を聞き、一念発起した地であるといわれている。
飯泉観音の縁日は、1月18日が初観音、8月9・10日が四万八千日、12月17・18日がだるま市で、いずれも市が立ち、多くの人で賑わう。(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による勝福寺の縁起

(飯泉村)
觀音堂
飯泉山(千代村に在し時は、補陀落山と號せり、)勝福寺と號す、坂東三十三觀音の一にて、第五番なり、本尊十一面觀音は、(木佛立像、長二尺八寸、毘首羯摩赤栴檀の御衣木を以て作と云、三十三年毎に帳を開て拝せしむ、)三國傳来にして、天平勝寶五年、唐の楊州大明寺の僧艦和将来して、孝謙天皇に献ず、天皇弓削銅鏡に賜ふ、銅鏡下野國へ謫せらるゝ時、(寶龜元年なり、同三年四月十三日、下野國薬師寺にて卒、)當郡千代村(往古千葉郷と稱せしは、則此所なり、)を過るに、有縁の地なりとて、則其地に一堂を經營して安置す、其後天長七年靈夢に因て、當所に引移せしと傳ふ、(按ずるに今の千代村なれば、當時猶彼村に在しならん、天長に移りしと云は疑べし、)永延二年、坂東札所に定れり、永禄五年十二月、北條氏より山中の法度書と出す、(曰、法度、飯泉山諸役免許事、押買狼藉事、喧嘩口論事、以上右三箇條、堅令停止候、於違犯輩者、速可被處罪科者成、仍如県、壬戌十二月十日、町奉行小笠原殿代北條氏虎朱印、)又天正十七年正月神馬錢の事に依て令あり、(曰、丑正月御神馬錢九貫文、秩父勝菊代前より請取之、飯泉之供僧別當に可相渡者也、仍如件、己丑正月廿五日、北條氏虎朱印、)慶長四年、大久保相模守忠隣家人をして山中の掟を令す、(曰飯泉山如前々諸役免許之事、諸事共如前師之可爲仕置事、坊中屋敷六供、幷別當陰居定夫屋敷共、但右之内大徳坊屋敷如前別當之、觀音佛供領之内に寄附被成申者也、仍如件、亥五月廿三日、聖知院、白幡與四右衛門、花押、)前立に慈覺大師作の十一面觀音を(木像立佛、長五尺八寸)安ず、堂(方七間)に普門閣の三字を扁す、(月舟の筆、)毎年正月六月十二月の十八日には境内に市ありて、時用の物を交易す、
△仁王門
△鐘樓。鐘は寛永六年鑄造なり、
△札堂。十一面觀音を置、
△大日堂。馬頭觀音堂
△入定塚。由来詳ならず、塚上五輪塔の壊損せし物あり、
△供僧。凡六院あり、千代村に在し頃は、彌勒院別當し、當所に移りし後は勝地院別當を勤めしが、今は六院毎に相替り執事せり、
△勝地院。
古義眞言宗(國府津村寶金剛寺末)、弓削銅鏡の開闢する處と云、中興賴秀(正應二年六月廿八日卒、)本尊不動、文書五通を蔵す、一は天文十五年二月、小笠原某供僧等の領地を舊に依て寄附する状なり、(曰、觀音供僧分廿一貫文、如前々之寄附申物也、仍如件、天文十五丙午年二月十八日、飯泉山別當坊、小笠原花押、按ずるに、小笠原は永禄の頃の地頭、小笠原六郎なるべし、)一は永禄五年十二月、北條宇治より出す所の法度書なり、一は天正十七年正月、神馬錢の令書なり(以上の二通、文前に出せり)、一は東照宮より當院に賜はる御書翰なり(曰、芳札令被見候、仍被任嘉例祈禱之札、幷杉原十帖五明到来、珍重候、猶安部伊豫守可申候、恐々謹言、九月六日、勝地院、御花押)一は慶長四年五月、大久保相州の家人、白幡與四右衛門用勝の與へし、山中の掟書なり(其文前に載す)、
△彌勒院
同宗同末(古義眞言宗國府津村寶金剛寺末)、中興僧慶傳、(正應五年八月十四日卒、)本尊彌勒(立像長一尺九寸、行基作)應永三十二年十二月廿六日、鎌倉管領持氏の與へし、當山別當職の補任状を蔵せしが、中古失へり、
地蔵堂。地蔵は恵心作(立像、長三尺一寸、)
△寶壽院
同宗同末(古義眞言宗國府津村寶金剛寺末)、中興慶海(永仁元年卒、)本尊不応、今無住にて、彌勒寺兼帶す、
△常福院
同宗(古義眞言宗)小田原蓮上院末、弓削銅鏡の開基なり、僧聖仁寛永中中興す、本尊薬師、
大師堂
△廣福院
同宗同末(古義眞言宗小田原蓮上院末)、中興開山周海(享保十三年十一月十日卒、)本尊彌陀、今無住にして、常福院兼帶す、
△大徳坊
同宗(古義眞言宗)寶金剛寺末、永仁元年、惠任中興す、本尊不動、是も無住なり、勝地院兼帶、
△承仕
供僧の支配に屬す、
△道久坊
本尊薬師、六院と同じく、除地を配當す、(新編相模国風土記稿より)


勝福寺の縁起

  • 本堂(神奈川県指定重要文化財)
  • 十一面観音立像(神奈川県指定重要文化財)
  • 銅鐘(小田原市指定重要文化財)
  • 勝福寺の青銅水鉢(小田原市指定重要文化財)
  • 仁王門(小田原市指定重要文化財)
  • 大イチョウ(神奈川県指定天然記念物・かながわの名木100選)
  • 勝福寺と八幡神社境内の樹叢(神奈川県指定天然記念物)
  • だるま市(かながわのまつり50選・小田原50選)

勝福寺の青銅水鉢

この水鉢は、青銅製で竜頭船の形をしています。
船尾に十一面観音菩薩の坐像が一躯あり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれています。
銘文によれば、作者は江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永とあり江戸時代の宝永元年(一七〇四)七月と記してあります。
この水鉢は、水鉢として形などが珍しく、その造りも優れています。(小田原市教育委員会掲示より)

勝福寺と八幡神社境内の樹叢

小田原市中央部の低地を流れる酒匂川の左岸約二〇〇メートルのところに飯泉山勝福寺があり、飯泉地区の鎮守である八幡神社がある。寺院と神社との間には境界はなく同一境内にあるような現況で、神仏習合時代の面影を今に残している。
境内には、ケヤキ、ムクノキ、イチョウ、エノキなどの落葉高木を主に、クスノキ、カヤ、イヌマキなどの常緑の高木が生育し、お寺の森とお宮の森が一体となってみごとな樹叢ができている。
「勝福寺の大イチョウ」(昭和三十二年天然記念物指定)を含むこの樹叢を保護するため、天然記念物として指定した。(神奈川県教育委員会掲示より)

勝福寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿