常念寺。小田原市国府津にある浄土宗寺院

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常念寺。滝川一益の菩提を弔うために開創、足柄三十三観音霊場

常念寺の概要

浄土宗寺院の常念寺は、瀧澤山法性院と号します。常念寺は、織田信長の家臣だった滝川一益が豊臣秀吉に敗れた後当地に隠棲、一益の孫滝川修理亮供久が、一益の菩提を弔うため慶長16年(1611)に創建、寂蓮社静誉暉峯上人が開山したといいます。明治維新後の明治6年には前羽小学校の前身となる小学祟広館が当寺に開設され、19年間小学校として供用されていました。足柄三十三観音霊場12番霊場です。

常念寺
常念寺の概要
山号 瀧澤山
院号 法性院
寺号 常念寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 小田原市国府津5-14-49
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



常念寺の縁起

常念寺は、織田信長の家臣だった滝川一益が豊臣秀吉に敗れた後当地に隠棲、一益の孫滝川修理亮供久が、一益の菩提を弔うため慶長16年(1611)に創建、寂蓮社静誉暉峯上人が開山したといいます。明治維新後の明治6年には前羽小学校の前身となる小学祟広館が当寺に開設され、19年間小学校として供用されていました。

「川東仏教会寺院名鑑」による常念寺の縁起

慶長16年(1611年)滝川一益の菩提寺として創建される。開基は滝川一益の孫、修理亮供久、開山は寂蓮社静誉暉峯上人である。
滝川一益は織田信長の驍将であったが、信長没後豊臣秀吉と合戦し、天正12年(1584年)蟹江城で降伏する。後、当地に敗走し、一生を終えた。一益の冥福を祈る為供久は暉峯上人を招いて常念寺を創建した。
明治4年(1871年)に文部省が設置され、学校制度が導入されたことから、明治6年(1870年)5月1日に前羽小学校の前身である小学祟広館を常念寺に開設した。明治8年前羽小学校と改称し、明治24年(1891年)に校舎を現在の場所に移転することにより、19年間の歴史に幕を閉じた。(「川東仏教会寺院名鑑」より)

新編相模国風土記稿による常念寺の縁起

(國府津村)
常念寺
瀧澤山法性院と號す、浄土宗、(芝増上寺末、)開山靜譽暉峯、(寛永十一年六月朔日卒、)慶長十六年、瀧川修理亮開基す、(元和元年十二月十四日死す、法名瀧川院願譽浄清常念、村民庄左衛門が祖なり、)本尊三尊彌陀、
△鐘樓 寶暦二年の鑄鐘をかく、(新編相模国風土記稿より)


常念寺の周辺図


参考資料

  • 「川東仏教会寺院名鑑」
  • 新編相模国風土記稿