白糸川釈迦堂。世相の安泰を祈り明暦2年に建立
白糸川釈迦堂の概要
寺院の白糸川釈迦堂は、白糸川釈迦堂は、地震や津波の頻発した江戸時代前期に、旧家広井長十郎重友が世相の安泰を祈り、明暦2年(1656)岩泉寺境内だった当地岩壁に釈迦如来像を彫像したといいます。岩泉寺は広井家が開基となり江戸時代初期に創建した寺院で、洪水により被災し、万治5年(1662)に移転しています。大正12年の関東大震災では、鉄橋が落下、また津波の土砂で埋没してしまい現在のような洞中状になったそうです。
山号 | - |
---|---|
院号 | - |
寺号 | - |
本尊 | 釈迦如来像 |
住所 | 小田原市根府川 |
宗派 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
白糸川釈迦堂の縁起
白糸川釈迦堂は、地震や津波の頻発した江戸時代前期に、旧家広井長十郎重友が世相の安泰を祈り、明暦2年(1656)岩泉寺境内だった当地岩壁に釈迦如来像を彫像したといいます。岩泉寺は広井家が開基となり江戸時代初期に創建した寺院で、洪水により被災し、万治5年(1662)に移転しています。大正12年の関東大震災では、鉄橋が落下、また津波の土砂で埋没してしまい現在のような洞中状になったそうです。
境内掲示による白糸川釈迦堂の縁起
白糸川の釈迦如来
根府川の旧家広井家の古文書によると広井家長十郎重友の代に頻発地震多く、特に寛永九年一月二十一日と正保四年九月十四日と慶安元年四月二十二日の地震は、死者、民家の倒壊多く津波も襲来する等で世相は不安にみちて居り、長十郎重友は村内世相の安泰のため岩泉寺境内の岩磐に釈迦如来像を像立して世相の安泰を祈ったとあります。お姿の右側に『寛文九丙申歳七月十二日元喜道祐庵主』と刻まれて居ります。これは像立した長十郎重友の命日と戒名ですから、後日刻んで像立者の冥福を祈願したものと思われます。その左に『普明歴二己酉歳仲秋月』と其の左に『広井宗左衛門敬』と刻まれて居ります。広井宗左衛門は長十郎重友後改め宗左衛門と広井家の系図にありますので、二十二世広井長十郎重友改め宗左衛門が、台座に刻まれて居る『大工権助策』『石匠寅佐代』によって明暦二年(一六五六年)に像立したものと思われます。
後に万治二年(一六五九年)の大洪水で岩泉寺は現在の高台に引移ったがお釈迦さまは岩磐に刻まれて居りますので引移す事が出来ないので現在の所に残りました。
大正十二年九月朔日(一九二三年)関東大地震が起りまして関東一円は有史以来の大惨事となりました。お釈迦さまは上の鉄橋が落ち其の上に津波の土砂で埋没してしまいました。お釈迦さまは目の高さより上に拝むように刻まれて居ったのですが、土砂に埋ったので現在の洞の中のお釈迦さまとなったのです。お釈迦さまは長い歴史の移り変りの中で言い伝えによれば弘法大師の作とも言われ此の地方の信仰のより所としてまいりました。特にお釈迦さまを掘った人々が落ちた鉄橋と土砂の中から指一本損じないお姿を見て、如来のあらたかさを驚嘆したとのことで、如来信者も多く、村内始め県西地方の人々の信仰厚く四月八日のお釈迦さまの誕生日には善男善女の参詣者多くにぎわいます。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による白糸川釈迦堂の縁起
(根府川村)
舊家長十郎
廣井を氏とす、家系に據に、上總介平良兼五代の孫、廣井太郎致房の次子重房の子重門、始て當所に住し、根府川太郎と稱す、(承保二年八月四日死)、重門の四子五郎重好の長子太郎重富、石橋山の役に賴朝の嚮導をなせしとなり、(治承四年十一月死)・・・(新編相模国風土記稿より)
白糸川釈迦堂の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「川東仏教会寺院名鑑」