大久寺。小田原市城山にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

大久寺。大久保忠世開基、大久保新八郎康任が再建

大久寺の概要

日蓮宗寺院の大久寺は、宝聚山随心院と号します。大久寺は、大久保忠世が開基となり、自得院日英を開山に迎えて天正19年創建、慶長19年(1614)二代相模守忠隣が改易となり当寺も衰退、寛永10年(1633)石川主殿忠聡(忠隣二男・石川日向守家成養子)が大久寺を江戸下谷へ移転(教風山大久寺)、その後大久保新八郎康任が当地で再建したといいます。

大久寺
大久寺の概要
山号 宝聚山
院号 随心院
寺号 大久寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 小田原市城山4-24-7
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大久寺の縁起

大久寺は、大久保忠世が開基となり、自得院日英を開山に迎えて天正19年創建、慶長19年(1614)二代相模守忠隣が改易となり当寺も衰退、寛永10年(1633)石川主殿忠聡(忠隣二男・石川日向守家成養子)が大久寺を江戸下谷へ移転(教風山大久寺)、その後大久保新八郎康任が当地で再建したといいます。

境内掲示による大久寺の縁起

大久寺は宝聚山随心院と号法華宗(現在は日蓮宗)の寺で、小田原大久保の初代七郎を開基とする寺である。
天正18年(1590)の小田原合戦に、徳川家康に従って参戦した遠州二俣城主大久保忠世は、合戦後論行賞によって小田原城4万5千石が与えられていた。この時忠世は日頃から帰依していた僧自得院日英を二俣から招聘し、しばらくは石垣山三の丸(古称聖人屋敷)に仮住いでいた。そして忠世が開基となって寺の建設をすすめ、翌天正19年堂宇が完成すると、日英を開山とする大久保家の菩提寺とした。
慶長19年(1614)二代相模守忠隣の時、大久保家が改易になると衰退したので、寛永10年(1633)石川主殿忠聡(忠隣二男・石川日向守家成養子)が大久寺を江戸下谷に移した(教風山大久寺)。その後、大久保新八郎康任が石塔・位牌を戻して大久寺がこの地に再建された。
墓石は正面右から小田原大久保氏三代加賀守忠常、二代相模守忠隣、藩祖七郎右衛門忠世、勤三郎忠良(忠勝五男)、五郎左衛門忠勝(忠俊の子)、常源忠俊(忠世の伯父)、忠良の娘の墓で、これから前期大久保氏一族の墓所として小田原市の史跡に指定されている。
大久保氏の墓所は、法華宗陣門流の大本山京都の本禅寺、愛知県岡崎市の長福寺、東京青山の教学院にもある。(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による大久寺の縁起

(山角町)大久寺
同宗(法華宗)、越後國本成寺末、寳聚山随心院と號す。天正十八年、大久保七郎右衛門忠世、當城を賜はりし時、遠州二俣に住せる僧日英、自得院と號す三州の人、を招き、暫し石垣山秀吉の陣所跡に在しむ。今石垣山三丸蹟に聖人屋敷と唱る地ありと云。日英朝暮伺候せしに、忠世其老體の労を思ひ、當所へ寺地を与へ、大久山保聚寺と號す、労米二百米を附し菩提寺とす。明る十九年堂宇落成す、後忠世の命により、寳聚山大久寺と改む。故に日英を開山とし、慶長十五年十月廿日卒、忠世を開基とす。然るに相模守忠隣、江州に謫せられし後、香花の営もなく、次第に衰替せしかば、五世日靈の時、寛永十年、下谷大久寺(教風山大久寺)記には、寛永七年となす、石川主殿頭忠総、按ずるに相模守忠隣の次男にて、石川日向守家成の養子となれり、江戸下谷に引移して菩提寺とす。當所の寺蹟は、風祭村妙覚寺日春買得して了源寺を建、中山法華経寺の末とす。然るに大久保新八郎康任、温泉に浴せし序、當所を過、大久保寺快復の志を興し、石川忠総に示談して、明る十一年了源寺を廃し當寺を再興せしと云。十七年境内の地を町屋及道敷とし、又正保二年足軽長屋となす。其代地は並に板橋村内にて輿ふ。中興覚正院日歎、万治三年十一月廿一日卒。本尊三寳四菩薩諸尊を安ず。
番神堂。護衛神二躯をも安置。文禄三年八月日英勧請と云。(新編相模国風土記稿より)


大久寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿