別所薬師堂。旧中華山応福寺
別所薬師堂の概要
寺院の別所薬師堂の創建年代等は不詳ながら、本尊の薬師如来は、行基菩薩の作と伝えられ、奈良~平安時代に山彦山薬師沢の奥の佛体ヶ窪に奉安されていたと伝承されています。徳川家康の関東入国後、小田原唐人町の中国人・葉七官の配下の者が当地に草庵を結び薬師如来を奉安、その後谷津法輪寺の末寺となり中華山応福寺と称していました。明治維新後廃寺となり、薬師堂となっています。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | - |
本尊 | 薬師如来像 |
住所 | 小田原市曽我別所96-1 |
宗派 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
別所薬師堂の縁起
別所薬師堂の創建年代等は不詳ながら、本尊の薬師如来は、行基菩薩の作と伝えられ、奈良~平安時代に山彦山薬師沢の奥の佛体ヶ窪に奉安されていたと伝承されています。徳川家康の関東入国後、小田原唐人町の中国人・葉七官の配下の者が当地に草庵を結び薬師如来を奉安、その後谷津法輪寺の末寺となり中華山応福寺と称していました。明治維新後廃寺となり、薬師堂となっています。
境内掲示による別所薬師堂の縁起
別所薬師堂
本尊は、瑠璃光薬師如来(脇侍十二神将)で行基菩薩の作といわれ、長さ四尺八寸の立像です。
里人の伝承によれば、この薬師如来像は、山彦山薬師沢の奥の佛体ヶ窪という所に、奈良時代から平安時代にかけて安置されていましたが、戦国時代兵火をこうむって、その背が焦げてしまったことから、別名「やけ薬師」と呼んでいました。
北条氏没落後、小田原唐人町の中国人・葉七官の配下の者が来て、ここに草庵を結び礼拝していましたが、その後谷津法輪寺の末寺となり中華山応福寺と称しました。明治に廃寺となり薬師堂だけが昔の面影をとどめています。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による別所薬師堂の縁起
(曾我別所村)
應福寺
中華山と號す、臨済宗、(曾我谷津村法輪寺末、)本尊薬師、(行基作、長四尺八寸立像、)(新編相模国風土記稿より)
別所薬師堂の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「川東仏教会寺院名鑑」