下磯部御嶽神社。下磯部地区の総鎮守
下磯部御嶽神社の概要
御嶽神社は、相模原市南区磯部にある神社です。下磯部御嶽神社の創建年代等は不詳ながら、延文元年(1356)以前より下磯部地区の総鎮守として祀られていたといいます。なお、当地は文明8年(1476)に起きた長尾景春と山内上杉顕定との争いに巻き込まれて落城した磯部城の中心地の一つではないかといいます。
社号 | 御嶽神社 |
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祭神 | 天児屋根命 |
合祀 | - |
境内社 | 堀内稲荷神社 |
祭日 | 例大祭9月1日 |
住所 | 相模原市南区磯部951 |
備考 | - |
下磯部御嶽神社の由緒
下磯部御嶽神社の創建年代等は不詳ながら、延文元年(1356)以前より下磯部地区の総鎮守として祀られていたといいます。なお、当地は文明8年(1476)に起きた長尾景春と山内上杉顕定との争いに巻き込まれて落城した磯部城の中心地の一つではないかといいます。
新編相模国風土記稿による下磯部御嶽神社の由緒
(磯部村)
御嶽社
佛像院持下同、(新編相模国風土記稿より)
「さがみはら風土記稿」による下磯部御嶽神社の由緒
この御嶽神社は下磯部地区のほぼ中央にあります。文明8年(1476)、兵をあげた長尾景春は山内上杉顕定らに立ち向かい、激しい戦いを繰り広げました。これに応戦したのが相模国の溝呂木城・小磯城・小沢城・そして磯部城の各城主たちです(磯部城の城主は不詳)。
しかし、必死の抵抗も空しく1~2年のうちに次々と攻め落とされ、ついに磯部城も落城してしまいました。
この磯部城がどこにあったのかはよくわかっていません。ただ、この神社のまわりには「堀之内」「橋場」「大門」「二重堀」「巳の堀」「切り通し」などの地名もあり、この御嶽神社かあるいはさらに相模川寄りの能徳寺あたりが城の中心ではなかったかと推測されています。
この御嶽神社もその創建年代は明らかではありませんが、下磯部集落の2つの日枝大神と同様に慶応元年(1864)と明治30年(1897)に社殿の再建を行っています。
なお、神社の例大祭にかかせない幟旗は現在ではクレーンで立てることが多くなっていますが、ここでは昔ながらに地域の人たちが総出で立ち上げ、祭り気分を盛り上げています。(「さがみはら風土記稿」より)
神奈川県神社誌による下磯部御嶽神社の由緒
創立年月日は不詳であるが、延文元年(一三五六)以前より下磯部地区の総鎮守として、御神徳追慕の念が深い。神社を中心にして、付近に「堀之内」「切通」「橋場」「舞台」、また鳥居周辺は「大門」等の地名が残っており、『相模風土記』にみえる磯部城の本丸の跡と言われている。樹齢四百年以上の柴が現存する。江戸時代は別名御獄大権現と称した。
慶応元年(一八六五)九月に社殿を再建し、同時に幟も再調した。明治三十年四月、石造の鳥居を建立し、同年八月三十一日に社殿を再建し、幟も新調した。同日、氏子・斎藤兵太郎氏から石燈篭一対の寄進があった。大正十二年九月、関東大震災のため鳥居の先脚が倒壊したが、翌年八月に再建された。大正十五年九月一日、織枠棹を新調し、昭和三十六年九月に元氏子・山口乙次郎氏が狛犬一対を献納。昭和四十五年九月に社殿の屋根を改修し、昭和五十三年、子供育成会の努力により子供神輿が完成し、敬神の念と親睦を図る。(神奈川県神社誌より)
下磯部御嶽神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿
- 神奈川県神社誌