相模原氷川神社。原清兵衛光保が新田開発の際に勧請
相模原氷川神社の概要
相模原氷川神社は、相模原市中央区清新にある神社です。相模原氷川神社は、小山村の豪農原清兵衛光保が新田開発をする際に天保14年(1843年)高尾山の氷川神社を勧請して創建したといいます。当社の「開墾記念碑」は15代将軍徳川慶喜の揮毫だそうです。
社号 | 氷川神社 |
---|---|
祭神 | 素戔嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 9月15日 |
住所 | 相模原市中央区清新4-1-5 |
備考 | - |
相模原氷川神社の由緒
相模原氷川神社は、小山村の豪農原清兵衛光保が新田開発をする際に天保14年(1843年)高尾山の氷川神社を勧請して創建したといいます。当社の「開墾記念碑」は15代将軍徳川慶喜の揮毫だそうです。
新編相模国風土記稿による相模原氷川神社の由緒
新編相模国風土記稿編纂時、未開拓地のため記載なし(新編相模国風土記稿より)
さがみはら風土記稿による相模原氷川神社の由緒
現在の清新地区は江戸末期に行われた清兵衛新田の開発によって開かれた地域です。
天保14年(1843)、代官江川太郎左衛門から開発の許しを得た小山村の豪農、原清兵衛光保は近隣の村から入植者を募り、一面原野の入会地に開墾の一歩を印しました。そのさい、入植者たちの士気を高めるため、武蔵国南多摩郡轢田村より氷川神社の分霊を受け、その年の6月17日に鎮守を創建しました。これが現在、清新4丁目にある氷川神社です。もちろん当時は立派な社殿ではなく、「いづなさま」と呼ばれる小さな祠であったようです。
現在、境内にはこの社地を検地した津田橘六・短期左内直親による石灯籠、清兵衛自らが奉納した石水盤や秋葉大権現の石塔、弘化3年(1846)に造られ昭和20年に移築された子育て地蔵などがきれいに配置されています。また幾重にも立ち並ぶ赤い鳥居の奥には、狐の魂が封印されたと伝えられている福徳稲荷社が祀られています。
これらの中でも一番目につくのは大きな「開墾記念碑」でしょう。これは明治45年に建てられたもので、裏面には入植者の偉業が記されていますが、何とこの表面の題字は、江戸幕府最後の将軍であった15代徳川慶喜によって書かれたものです。(「さがみはら風土記稿」より)
神奈川県神社誌による相模原氷川神社の由緒
天保十四年(一八四三)、原清兵衛が開拓者約八十名と諮り、高尾山麓(現在八王子市高尾町)にある氷川神社(現存)より神符を拝受し当地に奉祀し、村民の心のよりどころとした。又境内には徳川慶喜直筆の開墾記念碑があり、裏面には開拓当時の由来が克明に刻まれている。(「神奈川県神社誌」より)
境内掲示による相模原氷川神社の由緒
この神社は、天保14年(1843年)に小山村の豪農原清兵衛光保が新田開発をするにあたって高尾山の氷川神社から分霊を受け、ここに鎮守の神として創建したものです。
安政3年(1856年)の検地では、49人の入植者と開発面積205町7反9余、石高420石2斗余が記録されています。
また、本殿は相原にあった「外の御前社」を神意により移築したものと伝えられています。境内にある「開墾記念碑」は、清兵衛新田入植者の偉業について記されていますが、書は第15代将軍徳川慶喜によるものです。(相模原市・相模原市観光協会掲示より)
相模原氷川神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿