望地弁才天。江島神社にあった弁才天像
望地弁才天の概要
望地弁才天は、相模原市中央区田名にある神社です。望地弁才天は、明治11年(1878年)南光寺の森恵力師が、望地河原の一画に「望島殿」を設けて江島神社にあった本像を譲り受けて、養蚕守護としたといいます。
社号 | 望地弁才天 |
---|---|
祭神 | 弁才天 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 相模原市中央区田名5835 |
祭日 | - |
備考 | - |
望地弁才天の由緒
望地弁才天は、明治11年(1878年)南光寺の森恵力師が、望地河原の一画に「望島殿」を設けて江島神社にあった本像を譲り受けて、養蚕守護としたといいます。
新編相模国風土記稿による望地弁才天の由緒
(田名村)
風土記稿編纂時に未存在のため掲載なし(新編相模国風土記稿より)
「さがみはら風土記稿」による望地弁才天の由緒
この弁天堂は、田名のバス停「弁天入口」より南西へ400m、相模川に沿うキャンプ場に隣接しています。
一般に「望地弁天」と呼ばれ、本尊の木造弁才天坐像は、昭和62年に市指定重要文化財となっています。
この本尊はもともと江島神社(藤沢市)に祀られていたものですが、明治11年(1878) に養蚕守護のため、この地に移されたものです。これに伴う添書や天ぴん棒、水室、くじ箱など興味深い資料も多く残されています。
また、明治末期まで堂宇は相模川の中洲にあり、風光明娼な景観とともに多くの参拝者で、賑わったといいます。(「さがみはら風土記稿」より)
相模原市観光協会掲示による望地弁才天の由緒
この弁財天(べんざいてん)は、もともとは江島神社に安置してありましたが、明治11年(1878年)に南光寺の森恵力(もりえりき)師が養蚕鎮守のため、望地河原の一画に「望島殿(ぼうとうでん)」を設けて迎えました。しかし、明治40年(1907年)の大洪水によって社殿は流失してしまい、運びだされあ坐像は一時、南光寺に保管されていました。
その後、昭和20年の望地水田の整理によって現在の位置に社殿が再建され、再びここに遷座することになりました。この弁財天坐像は江戸時代の制作と思われ、市の重要文化財に指定されています。(相模原市観光協会掲示より)
望地弁才天所蔵の文化財
- 木造弁才天坐像(相模原市指定重要文化財)
木造弁才天坐像
本像は、寄木造りで彩色を施し、玉眼をいれています。額上には金銅透彫の火焔形宝冠をつけ、頭頂には鳥居と宇賀神をいただいています。八本ある腕はそれぞれ持物を持ち、荷葉形の台座に坐しています。
本像は、もともと江の島の江島神社で厚い信仰を集めていましたが、明治時代の神仏分離の後、藤沢の常光寺、綾瀬の済運寺に移されました。その後、田名南光寺の住職森恵力のあっせんにより、明治十一年十月、田名の望地・陽原・塩田の三集落が養蚕守護のために当地に移し、安置したものです。
本像には、製作者・製作年代が知れる銘文等はありませんが、江戸時代の作と考えられます。(相模原市教育委員会掲示より)
望地弁才天の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿