橋本山香福寺。建長寺67世蔵海性珍開山
香福寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の香福寺は、橋本山と号します。香福寺は、建長寺67世の蔵海性珍(応永18年1411年没)が開山、その後矢嶋左近某(寛永17年1640年没)が中興したと伝えられます。境内には橋本元宿から移された薬師堂があります。
山号 | 橋本山 |
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院号 | - |
寺号 | 香福寺 |
本尊 | 地蔵菩薩像 |
住所 | 相模原市緑区橋本5-39-17 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
香福寺の縁起
香福寺は、建長寺67世の蔵海性珍(応永18年1411年没)が開山、その後矢嶋左近某(寛永17年1640年没)が中興したと伝えられます。境内には橋本元宿から移された薬師堂があります。
新編相模国風土記稿による香福寺の縁起
(橋本村)香福寺
橋本山と号す。臨済宗鎌倉建長寺末、開山蔵海性珍と云ふ。応永18年6月11日寂す。本山60世なり。矢嶋左近某と云者、中興開基す。某寛永17年12月15日死す、村民甚十郎は其子孫なり。本尊地蔵を置く。運慶作長4寸5分。
鐘楼。貞享3年鋳造の鐘をかく。
薬師堂。本尊は矢島出雲と云者安ずる所なりと傳ふ。木像長1尺、聖徳太子作、台座に文字あり。嶋の一字僅に存し、其余は剥落す。出雲は左近が支族なるべし。此堂昔は字本宿に在り、今も旧蹟存せり。
山王社。
支院、常慶庵蹟。常慶と云ふ僧開基す。延宝7年2月27日寂す。外に延寿堂庵廃蹟あり。(新編相模国風土記稿)
平成さがみはら風土記稿による香福寺の縁起
香福寺は、橋本のバス停「橋本出張所前」のすぐ前にある臨済宗建長寺派の寺院です。
『風土記稿』によると、建長寺(鎌倉市)の末寺で、山号を橋本山といい、地蔵菩薩を本尊としています。
開山は建長寺67世の蔵海性珍〔応永18年(1411)没〕で、矢嶋左近某〔寛永17年(1640)没〕が中興したとしてます。また、本尊の地蔵菩薩像は鎌倉時代の仏師、運慶の作と伝えていますが定かではありません。
当寺には支院として「延寿堂」と「常慶庵」がありました。「延寿堂」は病憎などの診療所であり、「常慶庵」は常慶(延宝7年(1679)没〕が開いたと伝えられていますが、ともに『風土記稿』が編さんされた頓にはすでに廃寺になっていたことがわかります。
境内には薬師堂や江戸時代後期に建てられた鐘楼・四脚門があります。
また、境内中央のマキの大樹は樹齢400年といわれています。(平成さがみはら風土記稿より)
香福寺薬師堂
『風土記稿』によると、この薬師堂はもともとは橋本の本宿というところにあったことがわかります。それがいつの頃にかなくなり、本尊の薬師如来とその脇侍のみが香福寺に安置されるようになりました。また、同書ではこの薬師如来の製作者を聖徳太子であるとし、矢島出雲という人が安置したことを伝えています。
薬師如来の開帳は明治34年(1901)以来、現在に至るまで33年ごとに行われています。この開帳の時には薬師如来の手から紅白の綱がひかれ、これに触れて安産守護の利益にあやかろうとする人々で賑わいます。(平成さがみはら風土記稿より)
香福寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿