塩田山向得寺。足利持氏に仕えていた芳賀氏の千菊丸が創建
向得寺の概要
時宗寺院の向得寺は、塩田山と号します。向得寺は、足利持氏に仕えていた芳賀氏の千菊丸が讒言により出家(向得)して創建したといいます。その後天文年間(1532-1555)に焼失したものの、津久井城主内藤大和守某が新田武蔵守義宗の子孫住阿弥に請うて再興したといいます。
山号 | 塩田山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 向得寺 |
本尊 | 観音菩薩像 |
住所 | 相模原市中央区田名塩田3-15-15 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
向得寺の縁起
向得寺は、足利持氏に仕えていた芳賀氏の千菊丸が讒言により出家(向得)して創建したといいます。その後天文年間(1532-1555)に焼失したものの、津久井城主内藤大和守某が新田武蔵守義宗の子孫住阿弥に請うて再興したといいます。
新編相模国風土記稿による向得寺の縁起
(田名村)向得寺
鹽田山と號す、時宗(當麻村無量光寺末)僧向得起立す(俗姓は芳賀氏千菊丸と云ふ、鎌倉持氏に仕へ讒口に逢て遁世すと云ふ、)其後天文の頃兵火に罹て一旦退轉す、津久井城主内藤大和守某再興し僧住阿彌(此僧は新田武蔵守義宗の子孫にて、軍法に熟す、故に常に津久井城中に在しと云、)を請て住職せしむ、本尊地蔵、(新編相模国風土記稿)
平成さがみはら風土記稿による向得寺の縁起
向得寺は、パス停「塩田」より東へ200mのところにある時宗の寺院です。
『風土記稿』によると、無量光寺(本市当麻)の末寺で、山号を塩田山といい、地蔵菩薩を本尊としています(現在の本尊は観音菩薩)。また、向得という僧が創建したとしています。
同書所収の寺伝では、この向得はもともとは足利持氏に仕えていた芳賀氏の千菊丸という人で、この世を忍んで、当地に向得寺を聞いたとしています。
その後、寺は天文年間(1532-1555)に兵火によって焼失しましたが、津久井城主内藤大和守某が、住阿弥に請うてこれを再興したと伝えています。
ちなみに、住阿弥は新田武蔵守義宗の子孫であり、兵法に熱心だったため津久井城にいることが多かったといわれています。
また、伝承では天文年聞の兵火の際には塩田の集落に1日に500張の提灯を作ることが強制され、それができなかったために寺に火をつけ、照明代わりとして夜の相模川を武士たちが渡ったといわれています。
昭和初期まで地域では養蚕が盛んに行われていました。当時、寺には「蚕彰さん」と呼ばれる観音菩薩がまつられており、盛んに養蚕豊作祈願が行われていたということです。(平成さがみはら風土記稿より)
向得寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- さがみはら風土記稿