清浄山念宗寺。雉子稲荷、
念宗寺の概要寒川町指定文化財の木造阿弥陀如来坐像
浄土宗寺院の念宗寺は、清浄山成仏院と号します。念宗寺は、西光寺の光蓮社念誉笈道(慶長14年1609年寂)が開山となり創建したといいます。当寺の本尊木造阿弥陀如来坐像は寒川町文化財に指定されている他、当寺の稲荷は雉子稲荷と称され、「かながわのむかしばなし五十選」に選ばれた昔話の発祥の稲荷だといいます。
山号 | 清浄山 |
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院号 | 成仏院 |
寺号 | 念宗寺 |
住所 | 高座郡寒川町小動765 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
念宗寺の縁起
念宗寺は、西光寺の光蓮社念誉笈道(慶長14年1609年寂)が開山となり創建したといいます。当寺の本尊木造阿弥陀如来坐像は寒川町文化財に指定されている他、当寺の稲荷は雉子稲荷と称され、「かながわのむかしばなし五十選」に選ばれた昔話の発祥の稲荷だといいます。
新編相模国風土記稿による念宗寺の縁起
(小動村)
念宗寺
清浄山と號す、浄土宗赤羽根村西光寺末本尊彌陀、開山岌道慶長十年四月十七日卒
稲荷社(新編相模国風土記稿より)
「寒川町史10別編寺院」による念宗寺の縁起
浄土宗。山号は清浄山、院号は成仏院。赤羽根村(茅ヶ崎市)西光寺末で、大長寺(鎌倉市)の孫末にあたる。ただし、文政十年(一八一七)に本寺の西光寺が無住であったため、組寺の座間村(座間市)宗仲寺とともに大長寺に直末にしてほしいとの動きがあったようである(文政十年間六月「御請一札事」大長寺蔵)。
開創は、本寺である大長寺蔵「大長寺幷末寺由緒地誌御調ニ付書上控」によれば、「西光寺末寺 境内地九百坪年貢地、本尊阿弥陀仏、立像丈壱尺五寸、作不知、天正二丁丑年西光寺笈道建立ニ御座候開山光蓮社念誉笈道、慶長十四年四月十七日寂」とある。すでに天正二十年(一五九二)の「相州東郡宮山之内小動村田畑御縄打水帳」(脇文亮氏蔵)には、田方一反四畝一六歩、畑方四反六畝一五歩の耕地を持ち、その石高は四石九斗九升四合であったことが記されている。享保六年(一七二一)の書上には「三反壱畝年貢地、御除にて御座なく候」とあり、また天明八年(一七八八)の小動村明細帳にも「高四石九斗七升八合四勺 百姓持」とあることから、百姓持の田畑があったことがわかる。なお、地租改正時における当寺所有の寺地面積(墓地を除く)は一反一畝五歩であった(明治九年頃「田畑其外改正反別取調帳」脇文亮氏蔵)。『新編相模国風土記稿』には、境内に稲荷社をもっていたという記述がある。「社寺明細帳」によれば、本堂の間口六間・奥行六間、境内三三五坪、境外所有地として耕地六反二畝一四歩・山林八畝六歩であった。
小動村は当初旗本保々氏の知行を経て、享保十八年(一七三三)より旗本田沼意行の知行下に入るが、田沼氏は年貢米の中から茶湯料として米一俵を毎年当寺に渡していた。田沼氏の支配を離れる前年の天明元年(一七八一)には、茶湯料寄付を三俵に増やしている。安永三年(一七七四)当時の寺院人別では、寺内二名のうち僧一名・下男一名、また文政十年(一八ニ七)時の檀家数は二七軒であった。
本尊は阿弥陀如来坐像で、室町時代の造立とされており、胎内には明治二十一年(一八八〇)の修理銘が残っている。また「阿弥陀三尊来迎図」は室町時代の作と伝えられる。(「寒川町史10別編寺院」より)
念宗寺所蔵の文化財
- 念宗寺本尊木造阿弥陀如来坐像(寒川町指定重要文化財)
- 雉子稲荷
念宗寺本尊木造阿弥陀如来坐像
上品下生印を結ぶ来迎尊である。抑揚の少ないゆったりとした尊体は彫技も浅めに整えられており、割矧ぎの構造や材質の古さ等と相まって藤原期の作風を伝える。
また、引き締まった体つきや両膝間の写実的な着衣表現などには室町時代の作風も認められ、近在における古仏の一尊として貴重である。(寒川町教育委員会掲示より)
雉子稲荷
雉子稲荷にまつわる昔話は、念宗寺の和尚さんと狐の伝説が昔話化したもので、昭和五十六年度に、かながわのむかしばなし五十選に選ばれた。
この稲荷は以前、寺のそばの三抱えもある大木の洞に納められていた。(寒川町教育委員会掲示より)
念宗寺の周辺図