南足柄神社。旧飯沢八幡社
南足柄神社の概要
南足柄神社は、南足柄市飯沢にある神社です。南足柄神社の創建年代等は不詳ながら、最乗寺を応永元年(1394)に開山した了菴禅師が矢倉明神社(現足柄神社)と当社を深く崇敬、この2神が最乗寺建立に力添えしたと伝えられ、当時は飯澤明神社と称していたといいます。江戸期には飯澤村の鎮守として祀られ、村民惣左衛門持ちの社でした。惣左衛門の祖先は、新田義貞に仕え磯崎左京大夫と称していたと記されていることから、新田義貞死後、土着した際に祀った可能性が窺えます。明治43年に近隣の緒社を合祀、南足柄神社と改称しています。
社号 | 南足柄神社 |
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祭神 | 誉田別命外10柱 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 4月7日 |
住所 | 南足柄市飯沢398 |
備考 | - |
南足柄神社の由緒
南足柄神社の創建年代等は不詳ながら、最乗寺を応永元年(1394)に開山した了菴禅師が矢倉明神社(現足柄神社)と当社を深く崇敬、この2神が最乗寺建立に力添えしたと伝えられ、当時は飯澤明神社と称していたといいます。江戸期には飯澤村の鎮守として祀られ、村民惣左衛門持ちの社でした。惣左衛門の祖先は、新田義貞に仕え磯崎左京大夫と称していたと記されていることから、新田義貞死後、土着した際に祀った可能性が窺えます。明治43年に近隣の緒社を合祀、南足柄神社と改称しています。
境内掲示による南足柄神社の由緒
南足柄神社(飯沢八幡社)
室町時代の一、三九四年(応永一年)に大雄山最乗寺が創立された時に毎日のこと足柄明神と飯沢八幡の二人の神が手伝いにきたといわれています。もちろんこの話は伝説に過ぎませんが、それでも最乗寺の山主様が代わられた時は必ず八幡社に参詣して挨拶する事になっています。昔から境内には多くの五輪塔がありましたが、今は崩れて下の畑に積まれています。しかしこれらの塔は鎌倉時代から室町時代にかけてのもので、石造物としても文化財の価値の高いものです。
この五輪塔の細かな形の移り変わりを一目で知る事ができます。この五輪塔は、昔は武士階級でないと造る事が出来ませんでしたから古くから八幡社を管理していた豪族がいたと考えてよいでしょう。
「新編相模風土記稿」には磯崎左京太夫という人から十二代目の惣左門という人が管理者であるとなっていますが、或いはこれらの家の者かも知れません。祭神は八幡、神明、白山などの神々様で江戸時代の例祭は八月でしたが、今は四月の桜の花の満開の頃で最近まで神楽殿で神楽や歌舞伎などが行なわれていました。明治になって市内の神様を合祀して南足柄神社と呼ばれ現在に至っております。(南足柄市観光協会・南足柄市教育委員会掲示(南足柄市教育委員会掲示より)
新編相模国風土記稿による南足柄神社の由緒
(飯澤村)
飯澤明神社
祭神は、神明・八幡・白山の三座なり、村の鎮守とす、例祭八月、關本最乗寺剏闢の頃、この神矢倉明神と同じく、異人と化し了庵を助け、土木の功を終ふ、(彼寺縁起に詳なり、)後庵の室に入て参禅せり、(日域洞上緒祖傳に見ゆ、幷に最乗寺の條に詳なり、)これ等の因により、今尚彼寺輪番の僧入院の時、八月八日、必ず當社に詣るを例とす、村民(惣左衛門と稱す、其祖先は新田義貞に仕へ、磯崎左京大夫と云、民間に下りてより、今十二代に及ぶと云ふ)持、
末社。七座相殿(疱瘡神・天王・庚申・第六天・稲荷・山神・矢倉明神を祀る、)(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による南足柄神社の由緒
応永年間磯崎右京太夫の後裔が八幡大菩薩を勧請、社殿は寛文年間に改築され、明治四十三年合祀す。(神奈川県神社誌より)
南足柄神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌