足柄神社。南足柄の総鎮守、矢倉明神社
足柄神社の概要
足柄神社は、南足柄市苅野にある神社です。足柄神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊東征の帰路に白鹿に化けて顕れた神とされ、足柄明神(足軽明神)と称し足柄峠に鎮座、「神奈川県神社誌」ではその創建を天慶3年(940)としています。足利尊氏と新田義貞とが争った建武2年(1335)頃には新田義貞が足柄明神の南にある原野に陣取ったと「梅松論」に記載されていますが、いつしか矢倉岳に遷座、矢倉明神社と呼ばれていました。最乗寺を応永元年(1394)に開山した了菴禅師の頃には既に当社は矢倉澤へ遷座していたとされます。矢倉沢郷と称される当地一帯18ヶ村の総鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し郷社に列格していました。昭和14年足柄神社と改称、南足柄の総鎮守です。
社号 | 足柄神社 |
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祭神 | 瓊瓊杵尊、日本武尊 |
相殿 | - |
境内社 | 厳島神社 |
祭日 | 3月3日 |
住所 | 南足柄市苅野272 |
備考 | - |
足柄神社の由緒
足柄神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊東征の帰路に白鹿に化けて顕れた神とされ、足柄明神(足軽明神)と称し足柄峠に鎮座、「神奈川県神社誌」ではその創建を天慶3年(940)としています。足利尊氏と新田義貞とが争った建武2年(1335)頃には新田義貞が足柄明神の南にある原野に陣取ったと「梅松論」に記載されていますが、いつしか矢倉岳に遷座、矢倉明神社と呼ばれていました。最乗寺を応永元年(1394)に開山した了菴禅師の頃には既に当社は矢倉澤へ遷座していたとされます。矢倉沢郷と称される当地一帯18ヶ村の総鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し郷社に列格していました。昭和14年足柄神社と改称、南足柄の総鎮守です。
境内掲示による足柄神社の由緒
足柄神社社伝
足柄神社は、かつて坂の神として足柄峠に祀られたとされる足柄明神が矢倉岳、更に現在の苅野に遷座し矢倉明神社と呼ばれていました。昭和十四年(1939)年に足柄神社に改称されて、今も南足柄の総鎮守として信仰を集めています。
平成二十年に社殿の調査が行われ、いくつか特徴的なことが分りました。現在の社殿は、本殿と拝殿、幣殿とを廊下でつないでいますが、もとは独立して建っていました。本殿は三間社入母屋造で、桁行十五・五尺、梁行十一・七尺あり、県内でも数少ない大型社殿です。材質は欅の素木仕上げで、堅固さと優美さを備えています。本殿の各所には、獅子や龍など良質で細部にわたる彫刻や陽刻による装飾が施されています。本殿の建築年代は、境内の由緒碑によれば、慶応二(1866)年三月と記されています。
今回の調査から、この記述が妥当であることが分かりました。(南足柄市教育委員会掲示より)
新編相模国風土記稿による足柄神社の由緒
(苅野岩村)
矢倉明神社
古は足柄峠(矢倉澤村の屬)に鎮座し、足柄明神と號せり、(今猶彼峠路の中腹に、字明神と呼べる所あり、其舊址なり)景行天皇の御宇日本武尊東征の歸路、此神白鹿に化顯せし事、【古事記】に見ゆ、(注釈を読む)
建武二年十二月足利尊氏新田義貞等と、竹ノ下(駿州の屬)合戦の時、新田方は、足柄明神の南なる原野に陣を設けし事、【梅松論】に見えたり(注釈を読む)
其後矢倉ヶ嶽(矢倉澤村の屬、今も舊地に小祠を存す、)に遷座せしかば、是より今の神號を稱す、日域洞上緒祖傳に、矢倉澤廟と見えたれば、(注釈を読む)
應永の頃は、既に矢倉澤村に移せしなるべし、(菴の最乗寺を創せしは、應永元年なり、)
後又神託に任せ、當所に移せしかど、神號は舊に因る、祭神は瓊瓊杵尊、神躰木像(長三尺七寸)を置、殘本古風土記、(注釈を読む)
及【神社考】(注釈を読む)
【國名風土記】(注釈を読む)
等に垂迹の事跡を載たれど、皆眞を取にたらず、相殿に神明・淺間の二座を祀る、郡中十八村(當村及苅野一色・弘西寺・雨坪・福泉・飯澤・猿山・狩野・中沼・炭焼所・塚原・駒形新宿・和田河原・關本・怒田・小市・内山・平山等の村々なり、)の鎮守なり、例祭正月十八日、(神輿を福泉村一ノ御前二ノ御前の兩社に遷行す、是當社の后神なりと云、又村内辨天の社頭にて、奉幣有て遷輿す、)
【神寶】
△石一顆。往昔明神矢倉ヶ嶽より、當所に打し礫石(徑三寸餘、宮殿の内に収む、)と傳ふ、(神主の傳に、昔明神夢中に託して云、里に遠を以て、遷座の地に礫を打て示さん、其所に移すべしと、覺て後、此地に其驗あり、依て社を營しと云、又別當弘済寺所蔵、矢倉明神式には、柏葉を投じて示す、仍て爰に移して、矢倉大明神と號す、彼柏葉石と成て、大殿に在と記す、共に浮誕の言にして信ずるに足らず、)
△末社。日本武尊、素戔烏尊、稲荷、山王、第六天、金毘羅、獵祖権現(中古獵夫の祀りし祠と云傳、)
△本地堂。正觀音を安ず、
△神木。龍燈松と唱ふ(圍一丈五尺餘、)此餘古木多し、
△馬場。本社の西北にあり(長一町許、)流鏑馬の神事に設る所と云、(神事今は廢す)
△神主。臼井丹後、吉田家の配下、祖先を先明司と號す、(慶安中の【検地帳】に、先明司の名ある由、寶暦中の訴状に見えたり、)其後神職中絶して、鍵取となり、元文中豊後が時、舊に復すと云、(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による足柄神社の由緒
天慶三年(九四〇)足柄山に奉斎。石橋山合戦後矢倉獄に遷座し、鎌倉時代末期苅野岩村の現地へ再遷座した。(神奈川県神社誌より)
足柄神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌