弘済寺。鎌倉時代末~南北朝時代作の地蔵菩薩像
弘済寺の概要
東寺真言宗寺院の弘済寺は、法雨山金剛幢院と号します。弘済寺の創建年代等は不詳ながら、禅宗寺院として建立したのではないかとも推定され、当寺の地蔵菩薩像は、鎌倉時代末~南北朝時代の作とされます。応永16年(1409)に僧榮海が中興、矢倉明神社(現足柄神社)の別当を勤めていたといいます。地蔵菩薩像は、南足柄市文化財に指定されています。
山号 | 法雨山 |
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院号 | 金剛幢院 |
寺号 | 弘済寺 |
本尊 | 延命地蔵像 |
住所 | 南足柄市弘西寺131 |
宗派 | 東寺真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
弘済寺の縁起
弘済寺の創建年代等は不詳ながら、禅宗寺院として建立したのではないかとも推定され、当寺の地蔵菩薩像は、鎌倉時代末~南北朝時代の作とされます。応永16年(1409)に僧榮海が中興、矢倉明神社(現足柄神社)の別当を勤めていたといいます。
「南足柄市史」による弘済寺の縁起
該当記載なし(「南足柄市史」より)
新編相模國風土記稿による弘済寺の縁起
(弘西寺村)
弘濟寺
本村にあり、下同、法雨山金剛幢院と號す、古義眞言宗(足柄下郡國府津村寶金剛寺末)、應永十六年僧榮海中興す、(昔は禅刹なりしにや、今も本堂に達磨の古像殘れり、)本尊不動、
△地蔵堂。行基の作佛を置(長六寸五分)、
△鐘樓。明和六年の鑄鐘をかく、
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(苅野岩村)
矢倉明神社別當弘濟寺
弘西寺村にあり、當社進退の事により、元文の頃、神主と爭論に及び、寶暦八年領主の裁許にて、神主別當の兩進退となれり、されど社頭に付ての事は、總て神主進退し、別當は本地堂のみを、兼管する事とはなれり、 (新編相模國風土記稿より)
弘済寺所蔵の文化財
- 木造地蔵菩薩座像(南足柄市指定文化財)
木造地蔵菩薩座像
本像は像高三八センチ、寄木造、玉眼、肉身は漆箔、着衣は褐色漆塗、裳裾を台座よりさらに下にたらしている法衣垂下像である。白毫・玉眼・台座・光背は後で補修されている。ひきしまった顔、バランスのとれた体躯などよくまとまった作である。胎内には次の意味の修理銘札が納められていた。
「地蔵尊の再興施主雨坪村後藤太郎右衛門、鎌倉仏師後藤勘弥、元禄一三庚辰年(一七〇〇)六月上旬相模國足柄上郡苅野荘弘済寺村法雨山弘済寺金剛幢院住法印権大僧都大阿闍梨覚源欽修」
この時、前記の白毫・玉眼等の修理がされたのであろう。法衣垂下形式の地蔵座像は大変珍しい。鎌倉時代末から南北朝時代の作である。(南足柄市教育委員会掲示より)
弘済寺の周辺図
参考資料
- 新編相模國風土記稿
- 「南足柄市史」