福沢神社。文命堤鎮護の文命宮、市指定文化財の文命堤築堤時関係資料
福沢神社の概要
福沢神社は、南足柄市怒田にある神社です。福沢神社は、酒匂川の洪水で決壊した文命堤を修復する際、田中丘隅が中国の治水の神とも言われる禹(称号は文命)を祀った文命宮を作って享保11年(1726)に創建、班目・千津島・壗下・竹松・和田河原の鎮守として祀られてきました。明治時代後期の神社整理令により明治43年近隣の諸社を合祀、村名「福沢」より福沢神社と改称しています(村名については天福寺参照)。境内の文命堤築堤時関係資料は南足柄市文化財に指定されています。
社号 | 福沢神社 |
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祭神 | 天照皇大神、牛頭天王、外7柱 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 5月5日 |
住所 | 南足柄市怒田1912 |
備考 | - |
福沢神社の由緒
福沢神社は、酒匂川の洪水で決壊した文命堤を修復する際、田中丘隅が中国の治水の神とも言われる禹(称号は文命)を祀った文命宮を作って享保11年(1726)に創建、班目・千津島・壗下・竹松・和田河原の鎮守として祀られてきました。明治時代後期の神社整理令により明治43年近隣の諸社を合祀、村名「福沢」より福沢神社と改称しています(村名については天福寺参照)。
新編相模国風土記稿による福沢神社の由緒
(班目村)
文命社
西境怒田村の地にあり、享保十一年四月、文命堤修復の時、鎮護の爲神寓を祀る處なり、時に官よりも百金を賜ひて、祭祀の費用に充らる、事は碑銘に詳なり、圓石一顆(長四寸五分、黒赤色)を神體とす、別當は、千津島村寶生院兼帶なり、當村及び千津島・壗下・竹松・和田河原總て六村の鎮守とす、例祭四月朔日、護摩を修行す領主より神酒を酋す、是日社頭より根又堰水門の邊、及び堤上に農具を排列して鬻ぐを例とす、拝殿あり、(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による福沢神社の由緒
長宝丙戌年五月二十五日創建。文明堤守護神として崇敬を集める。明治四十三年十二月二十三日七地区社祠合併、福沢神社と改名した。(神奈川県神社誌より)
福沢神社所蔵の文化財
- 文命堤築堤時関係資料
文命堤築堤時関係資料
次のものは、文命堤及びその築堤に功績ある田中丘隅(休愚)と関係深い資料であり、酒匂川の治水の歴史を後世に伝える歴史資料です。五基・一体・一旈が市指定文化財に指定されています。
文命宮祠
丘隅によって建立されました。古文書や岩流瀬にある文命西堤の祠を参考に台石・蓋石・笠石は推定復元されています。
文命東堤前碑
文命堤の由来や祭礼の創始などが刻まれています。丘隅が起こした文章は大岡忠相、八代将軍徳川吉宗に回覧され、荻生徂徠が添削しました。
文命東堤後碑
徂徠が添削する前の、丘隅の原文が記されていると伝わります。
文命大明神御寶前
丘隅の娘婿である已野庄次郎(蓑笠之助)ら九名の土木技術者たちの名が記されています。
水鉢
大口土手下の村々の地元民が寄進したと伝わります。
大口川丈地蔵尊
丘隅が酒匂川治水を祈願して大口・岩流瀬・吉田島・金手・多古・飯泉に建立した六地蔵の一つと伝わります。
文命幟
祭礼時に掲げるために丘隅から下賜されたと伝わる幟です。(南足柄市教育委員会掲示より)
福沢神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌