極楽寺。南足柄市狩野にある臨済宗円覚寺派寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

極楽寺。今川基氏の子大喜法忻和尚仏満禅師が開山

極楽寺の概要

臨済宗円覚寺派寺院の極楽寺は、上関山と号します。極楽寺は、今川基氏の子五郎入道範国が、父の菩提を弔うために開基となり創建、同じく今川基氏の子大喜法忻和尚(後の仏満禅師)が庚永3年(1344)に開山したといいます。了庵慧明禅師が最乗寺を創建する際には当寺に寓居していたことから、最乗寺住職が交替する際には、入山前に当寺に足を運ぶしきたりとなっていたといいます。その後松田尾張守憲秀(法名極楽寺雲章喜公)が中興開基、徳川家康の関東入国後は、小田原藩の領主から寺領16石2斗の寄附を受けていた他、近隣に末寺を数ヶ寺擁していました。

極楽寺
極楽寺の概要
山号 上関山
院号 -
寺号 極楽寺
本尊 釋迦牟尼佛像
住所 南足柄市狩野782
宗派 臨済宗円覚寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



極楽寺の縁起

極楽寺は、今川基氏の子五郎入道範国が、父の菩提を弔うために開基となり創建、同じく今川基氏の子大喜法忻和尚(後の仏満禅師)が庚永3年(1344)に開山したといいます。了庵慧明禅師が最乗寺を創建する際には当寺に寄寓していたことから、最乗寺住職が交替する際には、入山前に当寺に足を運ぶしきたりとなっていたといいます。その後松田尾張守憲秀(法名極楽寺雲章喜公)が中興開基、徳川家康の関東入国後は、小田原藩の領主から寺領16石2斗の寄附を受けていた他、近隣に末寺を数ヶ寺擁していました。

境内掲示による極楽寺の縁起

極楽寺
この極楽寺を建てた人は、駿河(静岡県)の今川義元の数代前の血すじを引く仏満禅師という和尚さんです。今から六百数年ぐらい前のことです。今川氏は駿河の守護大名で、戦国時代には織田信長、徳川家康、上杉謙信、武田信玄等と共に、日本中にその名がきこえていた大名です。一、三九四年(応永元年)に、大雄山最乗寺をひらいた了庵慧明禅師は寺の建立中に、この極楽寺にとまって毎日山に通ったのだといいます。
寺の裏山には「松田尾張守」の供養塔があります。北條氏政が太閤秀吉に攻められた時、小田原は守りが堅くてなかなか落ちませんでした。秀吉は小田原の早川の山に、一夜城(城ができあがった時にまわりの気を切りはらったので、一夜のうちに城ができたように見えた)を作って小田原を攻めようとしました。この地方で一年も二年も戦が続くと一番迷惑をするのは農民たちです。松田尾張守は平安時代からこの土地に住んでいた豪族ですから一番土地のことをよく知っていました。主人の北条氏を裏切るのはしのびないことですが、戦を早く終りにして農民たちを守るため、ついに秀吉方に小田原城の守りの弱い所を教えてしましました。そのため城は一、五九〇年(天正十八年)ついに落城してしまいました。人々は松田氏を裏切り者として悪く言いましたが、農民たちをすくうために行った真の心を見るべきでしょう。
また寺の十八世住職象外全という和尚さんは明治の頃俳句の先生でもありました。俳句の方の名を六花苑桃逐といい付近の人々に俳句を通していろいろ勉強を教えました。現在も門前に句碑があります。
草も木も色おしなべて風かほる
この碑との弟子に蘭経菏笠一蓑など立派な俳句の名人がでました。(南足柄市観光協会・南足柄市教育委員会掲示より)

「南足柄市史」による極楽寺の縁起

狩野村極楽寺
極楽寺も鎌倉円覚寺の末寺である一方、自得寺や慶伝寺などの本寺であった。同寺は、足利尊氏の家臣で今川基氏の子五郎入道範国が、父の菩提を弔うために開基したと伝えている。基氏の第三子大喜法忻和尚は、極楽寺を開山したのち、本山の円覚寺第三〇世にむかえられた。
同寺は小田原北条氏時代まで朱印地を与えられていたが、同氏滅亡後は除地が与えられた。天和二年(一六八二)七月、小田原城主稲葉正則は一六石余りの除地を追認する安堵状を極楽寺に発給している。それには「如先規寄附之訖」とあり、近世初期から除地が与えられていたと考えてよいであろう。
後述する関本村最乗寺創建の際、了庵和尚は極楽寺に寓したと伝えられている。宗派は異なるものの、その後、住職として最乗寺に入る僧は、必ず当寺に寄り、その旨を報告したという。(「南足柄市史」より)

新編相模國風土記稿による極楽寺の縁起

(狩野村)
極楽寺
上關山と號す、臨済宗(鎌倉圓覺寺末、)庚永三年の起立なり、開山法忻(注釈を読む)
開基、今川五郎範國入道心省(法名定光寺悟菴心省、至徳元年五月十九日卒す、八十八歳孩名松丸と云)、關本村最乗寺開山了菴、應永元年彼寺創建の際、當寺に寓せり(寺記曰、開闢最乗之頃暫因當山、畫登雄峯作緒堂之造營、夜歸宿關山話禅道)
落成の後當寺に安ずる百丈禅師の像、了菴の師通玄に似たるをもて請得て開祖に擬す、是等の恩を感じ十八年正月、了菴更に盟書を送りて因を厚す、(注釈を読む)
是より後彼寺及に彼脇寮二院、輪番の僧交替の期には、必當寺に来りて各其事を報ず、(注釈を読む)
今猶然り、中興開基松田尾張守憲秀なり(法名極楽寺雲章喜公)、天和二年稲葉美濃守正則、先規に任せ寺領十六石二斗七升七合を寄附し今に至る、又天正中の文書寫二通を蔵す、(注釈を読む)
釋迦を本尊とす、又聖觀音を置、(長二尺四寸、聖徳太子作、)
△天神社
△鐘樓。元禄二年の鑄鐘を掛く、
△松田尾張守憲秀墓。二十五回忌追福の爲に建てし物と云ど、寛永十年五月十一日の文字仄かに見ゆ、
△子院養徳院(開山仁芳、本坊六世なり、文禄二年三月廿日寂、大日を本尊とす)(新編相模國風土記稿より)


極楽寺の周辺図


参考資料