大圓寺。南足柄市怒田にある日蓮宗寺院

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大圓寺。九老僧大円阿闍梨日伝開山

大圓寺の概要

日蓮宗寺院の大圓寺は、長照山と号します。大圓寺は、九老僧大円阿闍梨日伝(暦応4年1341年寂)が中之名に開山、酒匂川の氾濫により流失し応永元年(1394)千津島へ移転、荒廃した当寺を本光律師日善が永禄11年(1568)に再建、千津島でも洪水により被害を被ったため元和7年(1621)当地へ移転したといいます。

大圓寺
大圓寺の概要
山号 長照山
院号 -
寺号 大圓寺
本尊 三宝祖師像
住所 南足柄市怒田908
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大圓寺の縁起

大圓寺は、九老僧大円阿闍梨日伝(暦応4年1341年寂)が中之名に開山、酒匂川の氾濫により流失し応永元年(1394)千津島へ移転、荒廃した当寺を本光律師日善が永禄11年(1568)に再建、千津島でも洪水により被害を被ったため元和7年(1621)当地へ移転したといいます。

「南足柄市史」による大圓寺の縁起

怒田村大円寺
同寺はもと中之名村(開成町)の地に建立されたが、酒匂川の洪水で流失したため、応永元年(一三九四)八月に千津島村に移り、日養和尚によって再興された。だが再び水害をうけ、元和七年(一六二一)一一月に怒田村に移ったという(『風土記稿』)。
その大円寺の本山は鎌倉の妙本寺である。明暦二年(一六五六)七月以前に、本山に対して「不義」があったとして、日蓮宗池上派の本門寺から使僧(問罪使僧)が派遣された。この吟味で大円寺は、寺が千津島村にあった時までは身延派に属し、怒田村に移転した後は池上派であったが、ここ二代は身延派に属しており、池上派の吟味を不当と主張した(「永代日記 抜書」)。「不義」や事件の内容については明らかでないが、本寺末寺の関係に問題が生じた場合に、さらに上級の本寺本山から問罪使僧が派遣され、吟味が行われた点は見逃せない。(「南足柄市史」より)

「日蓮宗寺院大鑑」による大圓寺の縁起

永禄11(1568)年の創立。開山九老僧大円阿闍梨日伝。開基本光律師日善。池上・土富店法縁。はじめ千津島にあったが、酒匂川の氾濫で流失し、壗下に移転建立したが再度流失したため現在地に移転再建。(「日蓮宗寺院大鑑」より)

新編相模國風土記稿による大圓寺の縁起

(怒田村)
大圓寺
長照山と號す、法華宗、(鎌倉妙本寺末、)嘉暦元年、中之名村に剏建す、開山は日傳(暦應四年三月六日寂す、今里正が蔵する、寛文十二年の記には開山本光律師日善、永禄十一年開闢と載て、寺傳と差違す、按ずるに、當寺千津嶋村に在し際、一旦荒廢に及び、永禄十一年、日善が再建せしを傳へ訛れるにや、)
後酒匂川の洪水に流失せしかば、應永元年八月、千津島村に移りて再興す、中興開山を日養(應永廿一年二月廿六日寂す、)と云、後又水殃に罹り元和七年十一月(按ずるに、寺傳は元年とす、所蔵元和七年の文書、及び里正が蔵する寛文の記にも、元和七年當村に移るとあるを参考するに、寺傳に元年とあるは、全く七年を訛れるなり、)當村に移る、再中興を日登(寛永十年七月十九日寂す、)と云、此時領主安部備中守正次、永く寺地の諸役を免除し、且四境を定て下知あり、(所蔵文書曰、怒田之郷之内、永荒之所、新寺地取立被申旨末代迄年貢諸役、不入に定候、但屋敷切者、北東は掛切、西は本畑きは迄、南は道切に相定候、爲後日一札如件、元和七年辛酉霜月十一日、大園寺、内藤角左衛門景次華押、下宮理右衛門正直華押、)三寶祖師を本尊とす、(新編相模國風土記稿より)


大圓寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模國風土記稿
  • 「南足柄市史」
  • 「日蓮宗寺院大鑑」