珠明寺。関東管領上杉憲基・憲実・憲忠が開基
珠明寺の概要
臨済宗円覚寺派寺院の珠明寺は、月光山と号します。珠明寺は、関東管領上杉安房守憲基(法名宗徳院心無悔公)・安房守憲実(法名高岳長宗庵主)・右京亮憲忠(法名興雲院大韶釣公)の三代が開基となり、班目に創建、妙薫(文明3年1471年寂)が開山したといいます。宝永4年(1707)の富士山噴火により、翌年酒匂川が決壊、当寺も流失したことから怒田へ借地、享保13年(1728)旧地へ復帰したものの、享保19年に酒匂川が決壊したことから再び怒田へ借地、延享元年(1744)当地へ落ち着いたといいます。
山号 | 月光山 |
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院号 | - |
寺号 | 珠明寺 |
本尊 | 聖観世音菩薩像 |
住所 | 南足柄市怒田1528 |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
珠明寺の縁起
珠明寺は、関東管領上杉安房守憲基(法名宗徳院心無悔公)・安房守憲実(法名高岳長宗庵主)・右京亮憲忠(法名興雲院大韶釣公)の三代が開基となり、班目に創建、妙薫(文明3年1471年寂)が開山したといいます。宝永4年(1707)の富士山噴火により、翌年酒匂川が決壊、当寺も流失したことから怒田へ借地、享保13年(1728)旧地へ復帰したものの、享保19年に酒匂川が決壊したことから再び怒田へ借地、延享元年(1744)当地へ落ち着いたといいます。
「南足柄市史」による珠明寺の縁起
班目村珠明寺
『風土記稿』によれば、珠明寺の開基は、室町時代の関東管領上杉憲基・憲実・憲忠の三代であった。同寺は、もともと班目村の下河原の地にあったが、宝永五年(一七〇八)の酒匂川洪水で押し流され、隣村の怒田村に借地した。班目村への帰村を願いながらも、適当な寺建立地が確保できず、享保一九年(一七三四)には代官蓑笠之助に地所替の願書を差し出している。(「南足柄市史」より)
新編相模國風土記稿による珠明寺の縁起
(班目村)
珠明寺
月光山と號す、臨済宗(鎌倉圓覺寺末)、寺傳に、上杉安房守憲基(法名宗徳院心無悔公、應永廿五年正月三日、三十四歳卒す、)力爲、其子安房守憲實(法名高岳長宗庵主、應仁元年二月六日卒す、牌あり、)起立すと傳へ、(按ずるに寺傳に應仁二年の起立と云へど、全く訛なり、)憲基憲實及び其子右京亮憲忠(法名興雲院大韶釣公、享徳三年十二月廿七日卒す、)三人をもて共に開基と稱す、開山は妙薫、(文明三年三月三日寂す、)釋迦を本尊とし、又正觀音(長一尺一寸五分、弘法作)を安ず、村民所蔵、永禄十二年風損引方定書(全文は前に注記す、)に、一貫分珠明とみえたるは、當寺を斥せるならん、寺地舊は村内下河原に在けるが、寶永五年の洪水に流亡せしかば、少時怒田村に移住し、享保十三年舊地に復せしに、同十九年又水殃に罹り、境内盡く潴りしかば、再怒田村に移住し、延享元年官に請て許可を得、古境内と今の寺地を相替られ、寺地怒田村内にあれど、尚當村に屬せり、
△衆寮
△鐘樓。鐘は寶暦七年の鑄造なり、
△天神社(新編相模國風土記稿より)
珠明寺の周辺図
参考資料
- 新編相模國風土記稿
- 「南足柄市史」