善福寺。伊東四郎祐光創建、七福寺お寺めぐりの弁財天
善福寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の善福寺は、龍頭山華水院と号します。善福寺は、伊東四郎祐光が一族を弔うために元仁2年(1225)出家、平塚入道了源上人となり、大磯高来神社の別当職を勤めていたところ、親鸞聖人に入信し大磯善福寺を創建、さらに延応元年(1239)には壗下(壗下公民館地)に当寺を創建したといいます。宝永4年(1707)の富士山噴火により、翌年酒匂川が決壊、当地に借地して再建したものの、享保19年(1734)に酒匂川が決壊したことから再び怒田で再建しています。七福寺お寺めぐりの弁財天です。
山号 | 龍頭山 |
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院号 | 華水院 |
寺号 | 善福寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 南足柄市怒田153 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
善福寺の縁起
善福寺は、伊東四郎祐光が一族を弔うために元仁2年(1225)出家、平塚入道了源上人となり、大磯高来神社の別当職を勤めていたところ、親鸞聖人に入信し大磯善福寺を創建、さらに延応元年(1239)には壗下(壗下公民館地)に当寺を創建したといいます。宝永4年(1707)の富士山噴火により、翌年酒匂川が決壊、当地に借地して再建したものの、享保19年(1734)に酒匂川が決壊したことから再び怒田で再建しています。
境内掲示による善福寺の縁起
善福寺縁起
善福寺は龍頭山華水院と号し、親鸞聖人常随の高弟、関東六老僧の一人、平塚入道了源上人(伊東四郎祐光)の創建です。伊東祐光は伊豆の押領使、伊藤祐親の孫にあたり、その次男、伊東九郎祐清の子で仇討ちで有名な曽我兄弟とは従兄弟になります。元仁二(1225)年、一族を弔うために出家した祐光は、天台宗高麗寺大権現(大磯高来神社)の別当職につきました。その後、時を同じくして国府津(勧堂)に滞在していた親鸞聖人と出会い、浄土真宗の道に深く心を打たれ、随喜のあまり弟子となりました。そして、念仏の教えを弘めて道場を建立し、延応元(1239)年には壗下の地(壗下公民館)に善福寺を建立いたしました。現在、善福寺は壗下と隣接する怒田の高台に位置しておりますが、これは度重なる酒匂川の氾濫を避けてきたものです。(境内掲示より)
「南足柄市史」による善福寺の縁起
壗下村善福寺
当寺は元来天台宗の寺院であったが、寛喜年中(一二二九~三二)に親驚上人が関東を廻国した際、弟子になった了源が開山し、一向宗(浄土真宗)に改宗したという。当寺の創建について「永禄四年百十四年已前に当地引寺仕り」、「善福寺様大磯より引寺の節」などと記されている。しかし、『風土記稿』では、寛喜年中に建立されたのは大磯(大磯町)の善福寺であり、後年壗下村にあった弥陀堂に大磯の善福寺に模して、同じ寺号を授けたのであろうと記している。
善福寺も宝永五年(一七〇八)の酒匂川洪水で大きな被害をうけた。隣村の怒田村に借地し、小屋を建てて移り、享保一一年(一七二六)に大口堤が復旧したのをうけて、壗下村に戻った。だが、同一九年に再び洪水にみまわれ、再建した小寺も流失してしまった。その後、
同寺はもはや寺の再建ができないとして、怒田村の借地と壗下村の寺地の替地を求め、幕府代官蓑笠之助に願い出た。のちに、同寺の移転が許されたようで、寺地は怒田村に属している。(「南足柄市史」より)
新編相模國風土記稿による善福寺の縁起
(壗下村)
善福寺
龍頭山花水院と號す、一向宗(京西六條本願寺末、)、怒田村内にあり、古は當村に在しが、延享元年班目村珠明寺と同く官に請て、村内の寺地と今の境内と替賜はれり、されど猶當村に屬する事は、舊の如し、(事は珠明寺の條に詳なり、)平塚入道了源を開山とす(建長三年三月十八日寂す、)、縁起(寛永十三年の奥書あれども、全く寶永頃の刊本にて、後人の手に出て、牽強附會せし事、往々に見ゆ、信據とし難し、)に據に源寛喜元年鸞の門に入、後年大磯に一宇を創し、善福寺と號す、
(今彼地に現存す、域内に龍頭山と號する巨岩あり、故に山號とし、花水川の邊に在、故花水院と號すと云、)嘉禎元年、甲州小河原に一寺を建、亦善福寺と號す(今改て祐光寺と稱す)、延應元年、當所に来て彌陀堂を建立し、是も善福寺の號を授くと見え、後年一寺となりし證記なく、且寺寶以下、古を徴するにたるものなし、今推考するに當寺の如きは、後世大磯の善福寺を模して、創建せし事論なかるべし、其年歴は詳ならざれど、彼寺洪鐘の序文に、東照宮の仰により東派に屬せしが、安永三年歸順して、今は西派たる由を鐫れり、然れば彼寺東派に屬せし頃、西派下に了源の遺蹟を留めんがため、當寺を模造せしなるべし、當宗兩派に分れし後、互に模造せし例まゝ多し、尚彼寺の條と参考すべし、彌陀を本尊とし、南無佛太子(長八寸五分親鸞作、)及び了源自作の像(長二尺六寸)を置く、永禄四年北條氏より出せし、長純奉書の寫(曰、一向宗本寺之由、布施弾正左衛門相談、此度爲走□可申者也、仍状如件、永禄四年二月廿四日高麗寺別當花水院、相模足柄上郡千津嶋郷善福寺、並末寺、長純奉、按ずるに、源鸞の門に入ざるの前、台家に入、平塚入道法求と號し、淘綾郡高麗権現の別當となるなどみえたれば、かゝる書簡を贋作せしなり、)天正小田原陣の時、豊臣太閤が出せし制札の寫を蔵すれど、原本は寛政十年の回禄に烏有すといひ、皆贋物なり、
△寮舎。舊は二宇あり、一は某年毀廢せしと云、彌陀の畫像を本尊とす、
△鐘樓。文政八年再鑄の鐘を掛く、(新編相模國風土記稿より)
善福寺の周辺図
参考資料
- 新編相模國風土記稿
- 「南足柄市史」
- 相州西之坊 善福寺 | 小田原地域の永代供養墓 夫婦墓