保福寺。南足柄市内山にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

保福寺。神奈川県指定文化財の薬師如来像・十一面観音立像

保福寺の概要

曹洞宗寺院の保福寺は、両澤山と号します。保福寺は、今川基氏の子大喜法忻和尚(後の仏満禅師、応安元年1368年寂)が臨済宗寺院として開創したと伝えられ、その後荒廃していた当寺を香集寺二世良聞和尚(天文15年1546年寂)が曹洞宗に改めて開山したといいます。当寺本尊薬師如来像、及び大森頼明の持仏と伝えられる十一面観音立像は神奈川県文化財に指定されています。七福寺お寺めぐりの布袋尊です。

保福寺
保福寺の概要
山号 両澤山
院号 -
寺号 保福寺
本尊 薬師如来像
住所 南足柄市内山1959
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



保福寺の縁起

保福寺は、今川基氏の子大喜法忻和尚(後の仏満禅師、応安元年1368年寂)が臨済宗寺院として開創したと伝えられ、その後荒廃していた当寺を香集寺二世良聞和尚(天文15年1546年寂)が曹洞宗に改めて開山したといいます。

「七福寺お寺めぐりin南足柄」掲示による保福寺の縁起

両澤山保福寺は、大永元年(1521)に、元は臨済宗の寺院でありましたが、香集寺(山北町)の香山良聞大和尚により曹洞宗の寺院として再興されました。本尊の薬師如来像は平安末期の作とされ、県の重要文化財に指定されています。また、境内には十一面観音像が安置されている観音堂があり、そちらは平安末期の作とされ、駿東郡大森の地から相模に進出してきた、大森頼明の持仏であったと伝えられています。「七福寺お寺めぐりin南足柄」掲示より)

「南足柄市史」による保福寺の縁起

該当記載なし(「南足柄市史」より)

新編相模國風土記稿による保福寺の縁起

(内山村)
保福寺
兩澤山と號す、曹洞宗(川村向原香集寺末、)本尊薬師(長一尺五寸弘法作、)寺傳に、古は済家にて僧法忻(佛満禅師と號す應安元年九月廿四日寂す、)の剏建と云(按ずるに、【高僧傳】等に、佛満當寺を創せしことを漏せど、多建禅刹爲開山祖と見ゆれば、當寺も其一なるべし、)後一旦荒廢せしを、大永元年僧良聞(本寺二世、天文十五年七月廿六日寂す)當派に改め再建す、故に今聞を開山とす、
△白山社。寛延三年勧請す、
△地蔵石像。上屋を設く(背に寛文十一年爲小澤半兵衛と刻せり、)
△寮(新編相模國風土記稿より)


保福寺所蔵の文化財

  • 薬師如来座像(神奈川県指定文化財)
  • 木造十一面観音立像(神奈川県指定文化財)

薬師如来座像

本堂の中央須弥壇の上の厨子に安置される当寺の本尊。像高四七・八センチメートル、平安末期から鎌倉初期の作。頭部と胴体部は、カヤ材を使用した一木造の像であるが、膝前は別材を使用している。胴体には、内刳りがない。頭の螺髪は粒が荒く刻みつけたもので、後頭部は、螺髪が省略されている。頭頂の肉髻はかなり高く作られている。眼は彫眼で鼻筋はよく通っている。お姿は衲衣をまとい、両手は腹前。掌の上に薬壺を乗せて、右足を外に結跏趺坐する。衲衣は幅広くほぼ平行に並んでいる。衣文の彫りは浅く、平安初期から中期に見られた翻波式文様が見られる。背面は袈裟の紐をあらわすだけ。顔・手等にはわずかに金箔の跡が残り色彩を施された時代があった。(南足柄市教育委員会掲示より)

木造十一面観音立像

本像は、平安時代末期の作で、頭上に仏面、菩薩面等の頭上面を頂き、左手は前に出して水瓶をとり、右手は掌を前にしておろす十一面観音像共通のスタイルをとっている。造りはヒノキ一木造で、像高一六一、五センチ。曲げている左ひじから先と、腕から垂らす天衣を除き、すべて一材から彫り出している。内刳りは施していない。髪の部分は、山状の盛り上がりをつくっただけの素朴なものである。両眼は伏目がち、口は小さく顔の表情は温和である。両頬の肉どりは豊かで、この時代の特徴をあらわしている。衣文の彫りは、どの部分も浅く型どおりのものを刻んでいる。駿東郡大森の地から相模に進出してきた大森頼明の持仏であったと伝えられている。(南足柄市教育委員会掲示より)

保福寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模國風土記稿
  • 「南足柄市史」