天王院。南足柄市塚原にある曹洞宗寺院

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天王院。沼田城主沼間左衛門尉が創建

天王院の概要

曹洞宗寺院の天王院は、牛頭山と号します。天王院は、沼田城主沼間左衛門尉が父の菩提を弔うため応永21年(1414)創建、寛正2年(1461)に沼田氏が滅亡したことから衰廃したものの、その後沼田氏の子孫にあたる宗忻和尚を招聘、宗忻和尚は北条氏政の奥方と縁続きだったことから、北条家より寺領保護の虎朱印状を受領したといいます。徳川家康の関東入国後には、歴代小田原城主から寺領安堵状を受領、江戸期には大雄山最乗寺の名代(後見役)を務めていました。

天王院
天王院の概要
山号 牛頭山
院号 天王院
寺号 -
本尊 釋迦牟尼佛像
住所 南足柄市塚原3585
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



天王院の縁起

天王院は、沼田城主沼間左衛門尉が父の菩提を弔うため応永21年(1414)創建、寛正2年(1461)に沼田氏が滅亡したことから衰廃したものの、その後沼田氏の子孫にあたる宗忻和尚を招聘、宗忻和尚は北条氏政の奥方と縁続きだったことから、北条家より寺領保護の虎朱印状を受領したといいます。徳川家康の関東入国後には、歴代小田原城主から寺領安堵状を受領、江戸期には大雄山最乗寺の名代(後見役)を務めていました。

「南足柄市史」による天王院の縁起

塚原村天王院
同院を開基したのは沼田城主だった沼間左衛門尉で、亡父の菩提を弔うために一字を建立し、天王院と号した。寛正二年(一四六一の沼田氏滅亡により同院は衰退したが、七七年後に同家家臣石川佐渡・中村玄津・和問対馬が相談し、左衛門尉の子孫である宗忻和尚を住持に招いた。同和尚は「小田原前ノ城主早雲寺殿の長嫡氏政公の大御台所と縁由あるにより」とあるように、氏政の妻と縁があり、寺中・山林・門前寺領の朱印状を与えられた。
小田原北条民滅亡後に小田原城主となった大久保忠世は、家老の後藤弥次兵衛真成をとおして、従来どおりの寺領と山林境の定書を天王院に与えた。その子忠隣も寺領の安堵状を発している。由緒のある天王院は長泉院とともに、朱印状を求めて罷り出たが、長泉院の養山和尚が病死したために、実現しなかったという。城番時代には安藤重信から山林の制札が下され、稲葉正則の時代には寺領一九石五斗余りと山林竹木のことが安堵された。(『風土記稿』)
なお、天王院と竹松村大松寺は、大雄山最乗寺の末寺ではないが、同寺の名代(後見役)をつとめるという由緒をもつ。(「南足柄市史」より)

新編相模國風土記稿による天王院の縁起

(塚原村)
天王院
牛頭山(元禄の鐘銘には、碧落山と見ゆ、)と號す、曹洞宗(大住郡日向村石雲寺末、)應永二十一年の起立、開山悦叟(勅謚して透源大通禅師と稱す、天正三年六月十七日寂す、)開基は當郡沼田の城主、沼田左衛門尉と云傳ふ(法名卒年月を傳へず、寺傳に應永中當國沼田の城主と云、按ずるに沼田村に大森氏の城蹟と傳ふる地あり、是は此人の城蹟なるべし、)、慶長十九年二月安藤對島守重信、山内禁制の掟を定む(其時の文書寫を蔵す、下同、)又境内高十九石五斗一升六合は、慶安二年稲葉美濃守正則寄附し、天和二年其證状を授與す、貞享四年四月大久保加賀守忠朝より山内禁制の建札を授與あり、本尊釋迦を置、
△鐘樓。元禄十三年の鑄鐘を掛、
△開山堂
△天王社
△天神社
△山神社
△水神社
△稲荷社
△衆寮(新編相模國風土記稿より)


天王院の周辺図


参考資料

  • 新編相模國風土記稿
  • 「南足柄市史」