東教山乗誓寺。横須賀市東浦賀にある浄土真宗本願寺派寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

東教山乗誓寺。曽我十郎祐成の子平塚入道了源創建

乗誓寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の乗誓寺は、東教山と号します。乗誓寺は、曽我十郎祐成の子で源実朝に仕えていた河津三郎信之が親鸞聖人に帰依、出家し平塚入道了源と改め、阿弥陀寺と称して安貞元年(1227)平塚に開創、文明年間浄土真宗への暴挙があり、住持空浄は当地へ逃れたといいます。元和元年(1615)空覚代に再興、良如上人より寺号を賜り東教山阿弥陀院乗誓寺と改めています。

乗誓寺
乗誓寺の概要
山号 東教山
院号
寺号 乗誓寺
住所 横須賀市東浦賀1-20-10
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



乗誓寺の縁起

乗誓寺は、曽我十郎祐成の子で源実朝に仕えていた河津三郎信之が親鸞聖人に帰依、出家し平塚入道了源と改め、阿弥陀寺と称して安貞元年(1227)平塚に開創、文明年間浄土真宗への暴挙があり、住持空浄は当地へ逃れたといいます。元和元年(1615)空覚代に再興、良如上人より寺号を賜り東教山阿弥陀院乗誓寺と改めています。

新編相模国風土記稿による乗誓寺の縁起

(東浦賀)乗誓寺
東教山阿彌陀院と號す、浄土真宗(京西六條本願寺末)開基了源(寺傳に源は曽我十郎祐成の子母は大磯の虎女なり、童名祐若と云ふ、後河津三郎信之と稱とあり、淘綾郡山下村善福寺傳には、伊東入道祐親が二男、九郎祐清が子にして外祖父狩野介に養はれ、伊東四郎祐光と稱すとあり、尚善福寺條に辨あり、幷せ見るべし、)親鸞關東施化の時謁して専修の門に歸し、安貞元年平塚庄に一宇を建て阿彌陀寺と號し、親鸞眞筆十字名號を本尊とす、文明中山門の衆徒大谷祖廟破却の頃當寺住持空浄碩學の聞えありしかば衆徒相議して當寺發向の風説あり、空浄驚き眞筆の本尊を奉じ、平塚の寺を捨て此地に遁る、終に一寺を造り舊號を襲て阿彌陀寺と號す(舊蹟は後年浄土宗の寺となり、今平塚宿に存す、)後星霜を歴て堂宇廢毀せんとす、時に元和中僧空覺(郡中大津村、信誠寺の親屬、寛文四年十一月廿に日寂す、)當寺を中興し、寛永十四年舊號を院名とし、今の寺號に改む、本尊彌陀を置、
【寺寶】
十字名号一幅(親鸞筆、開基了源へ授與の本尊是なり、)
十五尊佛一幅(親鸞筆、)
六字名號一幅(蓮如筆、)
消息一幅(蓮如筆、)
大鼓樓(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による乗誓寺の縁起

東教山乗誓寺由緒
当山の開基は、平塚入道了源なり、了源は藤原鎌足十八代の裔伊藤祐成の子、母は大磯の虎御前なり。
河津三郎信之と称し童名を祐若と呼ぶ。信之は源実朝に仕へて、武功多く恩賞として平塚の庄を賜わり、積年の仇敵に感ずる処ありて親鸞聖人の教えを受け出家し、了源と名乗り、後、関東六老僧の第二座に列す。
安貞元年(西暦一二二七年)平塚に一宇を建て、阿弥陀寺と称し親鸞聖人直筆の十字尊号を以て本尊とす。
爾来、歴代相続後、文明元年(西暦一四六九年)比叡山の衆徒による京都西本願寺大谷祖廟の破却を知り、当寺住職空浄は碩学の聞え高かりしため、平塚をのがれ、当地、東浦賀に一宇を建て阿弥陀寺の本尊を移す。
その後、歳月を経て、元和元年(西暦一六一五年)空覚代に再興す。寛永十四年(西暦一六三七年)良如上人、御巡教の折、東教山阿弥陀院乗誓寺と賜わる。文化年中(西暦一八〇四年)第九世勧善代 法義繁昌し、当寺中興の祖とす。
大正十二年関東大震災により大本堂、庫裏、鐘楼堂等、倒壊せしも、昭和五十年本堂を再建、同五十九年庫裏鐘楼堂を建立す。今やここに堂宇漸く整うに至り之を建て報恩感謝す。
尚、当寺の歴代住職は、世襲制により脈々と継承され、曽我兄弟十郎の子孫なり。(境内石碑(境内掲示より)


乗誓寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿