法性寺。逗子市久木にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

法性寺。池上本門寺・鎌倉妙本寺の奥の院

法性寺の概要

日蓮宗寺院の法性寺は、猿畠山と号します。法性寺は、宗祖日蓮上人が松葉ヶ谷で法難に遭い当地に逃れてきた際、白猿が食べ物を運び供えてくれたと伝えられる当地に、日蓮上人が、弟子の日朗上人に寺院建立を命じたものの果たせず、日朗上人の弟子朗慶(越中阿闍梨)が当寺を元享元年(1321)に建立、日朗上人を開山とします。日朗上人は池上本門寺鎌倉妙本寺を開基、また没後当地に葬られたことから、両寺院の奥の院とされています。

法性寺
法性寺の概要
山号 猿畠山
院号 -
寺号 法性寺
住所 逗子市久木9-1-33
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



法性寺の縁起

法性寺は、宗祖日蓮上人が松葉ヶ谷で法難に遭い当地に逃れてきた際、白猿が食べ物を運び供えてくれたと伝えられる当地に、日蓮上人が、弟子の日朗上人に寺院建立を命じたものの果たせず、日朗上人の弟子朗慶(越中阿闍梨)が当寺を元享元年(1321)に建立、日朗上人を開山とします。日朗上人は池上本門寺鎌倉妙本寺を開基、また没後当地に葬られたことから、両寺院の奥の院とされています。

境内掲示による法性寺の縁起

法性寺(日蓮宗)
鎌倉時代中頃の建長六年(一二五四)、日蓮が安房小湊から鎌倉に出て来て辻説法を開始した数年間は、大地震をはじめ、大火、飢饉、疫病流行などの災害続きでした。
日蓮は法華経こそが人々を救うと説き、文応元年(一二六〇)に「立正安国論」を著し、先の執権北条時頼に上程しました。しかし、当時の仏教諸宗派が無力であるとして責めたことから、松葉ヶ谷の草庵が焼討ちされてしまいました。
山伝いにこの地に逃れてきた日蓮に白猿が食べ物を畠から運んでくれたという伝説のある岩窟が山上にあります。
法難を救った地として、弟子の日朗と朗慶の手で元享元年(一三二一)頃に当寺が創建されました。寺領全域が東京・池上本門寺鎌倉・妙本寺の奥の院とされています。(逗子市・自然の回廊プロジェクト掲示より)

新編相模国風土記稿による法性寺の縁起

(久野谷村)
法性寺
猿畠山と號す、日蓮宗(鎌倉妙本寺末)本尊三寶祖師傳に文應元年八月廿七日夜祖師鎌倉松葉ヶ谷の厄に逢て此所に遁れ来り、崛中に籠居す、時に白猿三匹来て食物を供す、師喜悦し宗法弘通の後此所に一寺を建立すべき由を弟子日朗に命ず、朗其事を果さずして卒す、其弟子朗慶(越中阿闍梨、)志を繼堂宇落成し、故に日朗を開山とし朗慶を開基とす(慶は元享三年八月二十一日卒す、按ずるに【鎌倉志】には蓮鎌倉に来りし初此山の岩窟に居る、諸人賤み憎て一飯をも贈らず、其時此山の猿来り畑に集り、食物を營て蓮に供す、故に猿畠山と號すと見ゆ、寺傳を異同あり、)
△山王祠。境内の鎮守なり、西北の山上にあり、日蓮の食物を供せしはこの山王の加護なりと云(【鎌倉志】に【東鑑】建長四年同六年・弘長三年等、名越山王堂と載するをもて此社の事とす、今按ずるに、鎌倉名越町に現に山王堂跡あれば、志に引用する所誤まれり、)
△祖師堂。像は朗慶の作(長三尺、)
△岩窟。祖師堂の後にあり方八尺則日蓮籠居の所なり、首題を彫りし石碑を立、
△日朗墓。祖師堂の前にあり(高六尺、)後背に枯松あり(圍九尺許古は陀落松と唱ふ、中古枯槁せしを衆僧祈て再び枝葉を生ず是より蘇生松と稱す、文化元年秋大風に終に枯朽す、)朗は池上本門寺鎌倉妙本寺兩寺を開基し、元應二年正月二十一日本門寺に於て卒す(年七十二)遺言により遺骨を爰に納む故に足る寺を兩寺の奥院と號す、(新編相模国風土記稿より)


法性寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿