妻沼聖天堂。熊谷市妻沼にある高野山真言宗寺院

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妻沼聖天堂。関東三聖天、齋藤別当実盛創建

妻沼聖天堂の概要

高野山真言宗の妻沼聖天堂は、聖天山歓喜院の堂宇で、関東三聖天の一つとして著名です。妻沼聖天堂は、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を大我井の杜と呼ばれていた当地に治承3年(1179)に建立、長井庄の総鎮守としたといいます。齊藤家の没落に伴い頽廃したものの、成田下總守藤原長泰が天文21年(1552)修造、徳川家康の関東入国後、慶長9年(1604)には50石の御朱印状を受領しています。関東三聖天の一と称されで、本殿(聖天堂)、貴惣門など国指定重要文化財が数多くあります。

妻沼聖天堂
妻沼聖天堂の概要
山号 聖天山
院号 歓喜院
寺号 長楽寺
住所 熊谷市妻沼1511
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妻沼聖天堂の縁起

妻沼聖天堂は、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を大我井の杜と呼ばれていた当地に治承3年(1179)に建立、長井庄の総鎮守としたといいます。齊藤家の没落に伴い頽廃したものの、成田下總守藤原長泰が天文21年(1552)修造、徳川家康の関東入国後、慶長9年(1604)には50石の御朱印状を受領しています。

境内掲示による妻沼聖天堂の縁起

国宝歓喜天聖天堂
妻沼聖天山は、治承三年(1179)、斎藤別当実盛公がこの地に大聖歓喜天を祀り開基したことに始まります。
その本殿である「歓喜天聖天堂」は、享保二〇年(1735)から宝暦一〇年(1760)に掛けて、林兵庫正清及び正信らによって建立されました。妻沼聖天堂聖天堂は、拝殿・中殿・奥殿を結ぶ権現造の建築様式であり、その各所に豪華絢爛な極彩色の彫刻が施されています。奥殿を中心に丸彫や透彫、地紋彫等の緻密な彫刻技法が用いられ、その上に漆塗りや極彩色が加わり、荘厳性を極致まで高めています。
日光東照宮の創建から百年あまり後、装飾建築の成熟期となった時代に、棟梁の統率の下、東照宮の修復にも参加した職人たちによって、優れた技術が惜しみなくつぎこまれた妻沼聖天堂聖天堂は、近世装飾建築の頂点であると言えます。そして、このような建物の建築が民衆の力や願いによって成し遂げられた点が、文化史上高い価値を有すると評価されています。
平成十五年から平成二十二年に掛けて歓喜院聖天堂の保存修理工事が実施され、極彩色の彫刻世界が蘇りました。
平成二十四年七月九日に、歓喜院聖天堂は、国宝に指定されました。この国宝指定は、埼玉県の建造物として初の栄誉です。(熊谷市教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による妻沼聖天堂の縁起

(幡羅郡妻沼村)
聖天社
當郡第一の大社にて、長井庄の總鎮守なり、社地に杉及槻の大樹繁茂して、其中に本社を立、拝殿共に銅瓦葺にて荘厳を盡せり、社より鳥居迄三丁餘、神體中央に歡喜天、左に辨財天、右に大黒天を安ず、縁起の略に云、當社は伊弉諾・伊弉册の二柱の御神鎮座の地なれば、今の女沼・男沼の村名遣りたり、然るに聖天宮と崇め奉る事は、往昔平宗盛の臣・斎藤左衛門次郎眞直の嫡男、斎藤別当藤原眞盛、仁安年中平相國清盛の指揮にて關東に下り、當國長井庄を領して爰に住居し、當社信仰の餘に治承三年修造を加へ、彼が曟(晨)祖利仁将軍延暦三年靈夢に依て、越前國武生の國府櫻澤地より探獲たる歡喜天を、金ヶ崎五幡の本城に鎮座せり、依て今其苗裔なれば、當社をも聖天宮と崇め祀しとなり、其後建久四年賴朝武蔵國入間野にて、追鳥狩せさせ賜ひ、直に下野國那須野へ趣賜ふとて、利根古戸の渡へ掛り、三月二十七日當社へ参詣の時、時の別當阿請阿闍梨請ひ奉て、東八ヶ國を勤化し、同き八年宮社堂宇悉落成し、聖天山歡喜院長楽寺と號す、又別に本地堂を建て、東福寺と名付、同年四月八日宮道傔仗平國平・藤原氏人眞家同眞□、[末に出せる寶物錫杖銘には、實家實幹に作る]、託宣に依て御正體錫杖、幷十一面観音の像を鋳造し奉る、斯て百三十餘年の星霜を經て、元弘・建武の頃より海内大に亂れ、應仁・文永・大永の間東國兵亂の爲、斎藤次朝仁は由緒あるに依て、越州赤田の保に赴き、斎藤攝津守基雄・同所左衛門基英は、野州安蘇寒川に走り、其外一族從者他邦に離散し、或は近隣に隠れて農民となる、かかりければ、當社の修造怠慢して衰敗せしを、忍の城主式部大輔助高の末葉、成田下總守藤原長泰禅門蘆伯・同左衛門次郎氏長尊敬の餘、家人女沼の地頭手嶋美作守平高吉に課して、天文二十一年修理を加へ、其後御當代に至り、慶長九年社領五十石の御朱印を付せられしと云々、又社傳に云、寛永十五年二月大河内金兵衛當所の陣屋引拂の時、其地及村の沼地を開て供田に寄附せしより、遂に舊に復して、宮社の造營成しと、縁起に載る所の事蹟信じ難き事のみ多ければ、後人附會の説に出たるも知べからざれど、現に社寶として建久八年の銘ある錫杖、及暦應二年の鰐口あり、又天文二十一年、慶長九年二度の棟札等傳へたれば、古社なることは論なし、又古縁起に武蔵國幡羅郡長井庄女沼郷、太我井森聖天宮とあるよりにや、近郷の村民當所を古歌に詠ぜし名所なりと云、按に【夫木集】武蔵の名所の部光俊卿の歌に、紅葉ちる太カ井の杜の夕たすき、又めにかかる山の端もなし、左の言葉書に、此歌は武蔵野を過けるに、まことにやまはみえずして、おほか井のもりといふ杜ばかり、わづかに紅葉みえけるによめるとあり、是にや、されど今唱る處は太我井森にて、光俊卿の歌には大我井杜とみえたれば、是とは自ら別なるにや、總て田父野老の口碑に殘れるものはたゞ其唱呼のみなれば、おほをたと誤り傳ふべきゆへなし、若くは後広歌集を傳寫せる時、字様の相似たるより、たまたまおほかゐと書しにや、されど彼大我井杜と云は、【夫木集】のみ光俊卿の歌を引たれど、其餘考るものなければ、いと浮たる説と云べし、
社寶
錫杖一。按縁起建久八年四月八日宮道傔仗平國平等託宣に依て神體を鑄とあるもの是なり、然に此柄の文に宮道國平氏とあるに據れば、國平の姓は宮道にて、平氏とあるは其妻室などにや、又按【東鑑】建久二年十月一日丙子の條に、宮六傔仗平等、奥州幷越後國より駿牛十五頭を召進し事見え、年代も同時なれば是と同人なるべし
錦帷一布。長五尺二寸、幅二尺三寸六分、是蜀紅錦にして裏面に明文もあれば、世に稀なる帷なりとて、享保十六年小出信濃守きこえ上て、台覧に入りしといへり、銘文左の如し、(銘文省略)
古鰐口一口
雉子畫一軸。常憲院殿の御筆と云、
仁王門
神楽殿
鐘樓。寶暦十年新鑄の鐘を掛、銘文中に、元和年中鈴木主税介鑄造せしを、再鑄する由を記す、
末社。荒神、天神、駒像、道祖神、神明、辨天(神明・稲荷・諏訪・護頂神井殿合社)
本地堂。弘法大師作の彌陀を安置す
太子堂
神輿堂(新編武蔵風土記稿より)


妻沼聖天堂所蔵の文化財

  • 貴惣門(国指定重要文化財、嘉永4年1851年竣工)
  • 御正体錫杖頭(本尊)(国指定重要文化財)
  • 本殿(国指定重要文化財)
  • 仁王門(国登録有形文化財)
  • 閼伽井堂(国登録有形文化財)
  • 水屋(国登録有形文化財)
  • 平和の塔(国登録有形文化財)
  • 籠堂(国登録有形文化財)
  • 鐘楼(国登録有形文化財)
  • 三宝荒神社(国登録有形文化財)
  • 五社大明神(国登録有形文化財)
  • 天満社(国登録有形文化財)
  • 板石塔婆「善光寺式三尊像板碑」(埼玉県指定文化財)
  • 鰐口(埼玉県指定文化財)
  • 紵糸斗帳(埼玉県指定文化財)
  • 四脚門(中門)(熊谷市指定文化財)

板石塔婆「善光寺式三尊像板碑」

表面の主尊に、阿弥陀如来、脇侍に観音、勢至両菩薩を半浮き彫りにし、光背部に七化仏を配した所謂「善光寺式三尊板碑」で通称「ひら仏」と呼ばれている。 裏面には釈迦如来と文殊・普賢の両菩薩の種子が刻まれている。 紀年銘は無いが、鎌倉時代のものである。 この板碑はかつで妻沼小学校の敷地(もと大我井森)にあったが昭和30年12月、校舎増築のため現在地に移転したものである。高さ178cm。幅59cm。(熊谷市教育委員会掲示より)

四脚門(中門)

懸魚の模様等に室町期の特徴をよく残し、寛文の大火で唯一残り聖天山の建造物群の中でも最古のものと言われる。
平成2年の解体処理により瓦葺きの屋根を銅板葺き替えたが、柱に明治43年(1910)大洪水の痕跡を残す。
里人はこの門を甚五郎門と称している。(熊谷市教育委員会掲示より)

貴惣門

妻沼聖天山聖天堂の正門として建てられた雄大規模の八脚門で、側面(妻側)に破風を三つ重ねた類例の少ない奇抜な形式に特徴がある。
寛保二年(一七四二)幕命で、利根川大洪水の復旧工事に妻沼を訪ねた周防国(山口県)岩国吉川藩の作事棟梁長谷川重右衛門に聖天堂の大工棟梁林正清が設計を依頼したもので、約百年後の嘉永四年(一八五一)正清の子孫林正道が棟梁となり完成した。
総欅造の精緻なつくりに、多様な技法の彫物で要所を飾るなど、江戸末期の造形芸術の粋が発揮されている上、主要部材に寄進の名を残す等、郷民信仰の証を伝える貴重な建造物である。(熊谷市教育委員会・聖天山妻沼聖天堂掲示より)

仁王門

「仁王門」は、参道の奥、聖天堂の正面に建つ大規模な門で、左右に仁王像を安置しています。屋根は入母屋瓦棒銅葺葺で、中央の虹梁には花鳥の精緻な彫刻を飾っています。大工棟梁は林正啓と伝えられています。明治24年に隣接するイチョウが台風により倒木し、建物が倒壊。再建されました。(妻沼聖天山・熊谷市教育委員会掲示より)

閼伽井堂

「閼伽井堂」は、仁王門の南に位置する木造平屋建、入母屋造銅板葺の建物で、中央に井戸を据えた土間と水天宮を祀る一室からなっています。軒廻りに精緻な彫刻を施しており、小規模ながら上質のしつらえを見せています。
大工棟梁は、貴惣門を建てた林正道、彫刻は3代目石原常八の息子、高沢介之助と伝えられています。(妻沼聖天山・熊谷市教育委員会掲示より)

水屋

「水屋」は、仁王門の正面南寄りに位置する切妻造桟瓦葺の水屋で、中央に石製の水盤を据えています。軒廻りに様々な彫刻を施すなど、規模に比べ豪奢で重厚な印象を与える建物となっています。(妻沼聖天山・熊谷市教育委員会掲示より)

籠堂

「籠堂」は、聖天堂の北東に位置する木造2階建、寄棟造桟瓦葺の建物で、南東には唐破風造銅板葺の玄関を設けています。1・2階とも8畳6室を2列に並べ、四周に廊下を廻らしています。2階客殿は、透彫の欄間などの装飾が見られ、明治18年(1885)と翌年19年に昭憲皇后が休息所として使用されたと伝えられています。(妻沼聖天山・熊谷市教育委員会掲示より)

平和の塔

「平和の塔」は、境内北方の盛土上に建つ総欅造の多宝塔で、昭和26年に締結されたサンフランシスコ平和条約を記念し、戦没者の供養と世界恒久平和を願して建立されたものです。
内部には十一面観世音菩薩や大日如来、弘法大師などの仏像が安置されています。
大工棟梁は林亥助です。(妻沼聖天山・熊谷市教育委員会掲示より)

鐘楼

「鐘楼」は籠堂の西に位置し、入母屋造桟瓦葺の造りで、石造とコンクリート造の二重の基壇上に建てられています。基壇は大正期・昭和26年にかさ上げされ、建ちの高い特異な外観を見せています。(妻沼聖天山・熊谷市教育委員会掲示より)

三宝荒神社

「三宝荒神社」は、聖天宮の背面側に位置する一間社流造、素木造、銅板葺の小社で、軒廻りを彫刻で賑やかに飾り、高い大工技術を示しています。大工棟梁は、国宝の聖天堂拝殿を建てた林兵庫正信です。(妻沼聖天山・熊谷市教育委員会掲示より)

五社大明神

「五社大明神」は、聖天堂の背面、三宝荒神社の南側に位置する切妻造銅板葺社殿で、(南から)神明大明神、稲荷大明神、諏訪大明神、灌頂大明神、井殿大明神の5大明神を祀っています。軸部は弁柄塗で、軒廻りの紅梁や妻飾りなど、華やかな装飾を見せています。大工棟梁は林兵庫正信です。(妻沼聖天山・熊谷市教育委員会掲示より)

天満社

「天満社」は、聖天堂の背面、五社大明神の南側に位置する一間社流造、素木造、銅板葺の小社です。軒廻りの彫刻など、三宝荒神社とほぼ同じ形で、境内の形成過程を知ることができます。大工棟梁は林兵庫正信です。(妻沼聖天山・熊谷市教育委員会掲示より)


妻沼聖天堂の周辺図