引田八雲神社|天王さま、旧村社
引田八雲神社の概要
引田八雲神社は、あきる野市引田にある神社です。引田八雲神社の創建年代等は不詳ながら永禄年間(1558-1569)の創建と伝えられ、志村肥前守景元が津島牛頭天王社を勧請して天正17年(1589)再興、明治3年八雲神社と改号、村社に列格していました。
社号 | 八雲神社 |
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祭神 | 素戔嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社、疱瘡社、水神社、山の神社、神明社、御嶽神社 |
住所 | あきる野市引田776 |
祭日 | 4月第2日曜日 |
備考 | - |
引田八雲神社の由緒
引田八雲神社の創建年代等は不詳ながら永禄年間(1558-1569)の創建と伝えられ、志村肥前守景元が津島牛頭天王社を勧請して天正17年(1589)再興、明治3年八雲神社と改号、村社に列格していました。
東京都神社名鑑による引田八雲神社の由緒
勧請起源は永禄年間(一五五八-七〇)である。公称は八雲神社であるが、明治維新前は祇園牛頭天王と称した。本社は愛知県海東郡津島神社である。(東京都神社名鑑より)
「秋川市史」による引田八雲神社の由緒
八雲神社 引田七七六番地
古くは、祇園牛頭天王社とよばれていた。創建年代は永禄年間(一五五八~六九)といわれる。当時桧原城主であった平山新左衛門尉氏重の臣、志村肥前守景元が当地の領主で、尾張国海東郡にあった津島牛頭天王社(愛知県津島市、津島神社)を勧請したのに始まる。
天正十八年(一五九〇)平山氏が滅亡すると、おそらく志村肥前守の領主としての勢力も衰えたのであろう。江戸時代は真言宗の寺であった中引田山正音寺が別当職として、社務の管理をしていた。
明治三年(一八七〇)神仏分離となって社号を八雲神社と改めた。社格は村社であった。俗社号は「お天王さま」といわれている。
御祭神は素戔嗚尊、例祭日は八月一日であるが、現実には四月の第二日曜に行う。(「秋川市史」より)
新編武蔵風土記稿による引田八雲神社の由緒
(引田村)
日吉山王社
社地、七千二百坪餘、秋川の端にあり、小社東向、勧請の願主は、日奉朝臣平山右衛門大夫にて再興は天正十七年志村肥前守と云ふ、村内眞照寺の持、例祭二月初午、四月初申、同月二の申の日なり、この社へ彼肥前守の納しと云古き繪圖の如き繪馬あり、繪馬竪は八寸五分横は六寸ありて、畫像は猿の馬を曳たるを高く彫たるものなり
本地供養堂
是を正音寺と云ふ、寺號を唱ふれども、別當にはあらず、堂は二間に三間、是も志村肥前守の造立なりと云、
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愛宕社
社地、千八百坪餘、小名山王林にあり、小社、祭神は素戔嗚尊にて、本社は薬師佛なり、眞照寺の持なり
末社疱瘡神、小社なり、
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山神社
一ノ澤にあり、小社、是も眞照寺の持、
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山神社
三ノ澤にあり、小社、同じ持、
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神明社
村の南の方にあり、持前におなじ、小社なり(新編武蔵風土記稿より)
引田八雲神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「秋川市史」
- 東京都神社名鑑