引田山眞照寺|寛平3年(891)創建、引田薬師、関東九十一薬師霊場
眞照寺の概要
真言宗豊山派寺院の眞照寺は、引田山金蓮院と号します。眞照寺は、平安時代の寛平3年(891)に義寛が創建、延文元年(1356)に関東管領足利基氏が秋川丘陵の渕上の日照山の頂上に再興したといいます。享禄4年(1531)火災で焼失し当地へ移転、天正19年(1591)には月徳川家康から寺領七石の御朱印状を受領しています。当寺の薬師如来像は引田薬師と称され、関東九十一薬師霊場の6番となっています。多摩八十八ヶ所霊場58番です。
山号 | 引田山 |
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院号 | 金蓮院 |
寺号 | 眞照寺 |
住所 | あきる野市引田354 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
眞照寺の縁起
眞照寺は、平安時代の寛平3年(891)に義寛が創建、延文元年(1356)に関東管領足利基氏が秋川丘陵の渕上の日照山の頂上に再興したといいます。享禄4年(1531)火災で焼失し当地へ移転、天正19年(1591)には月徳川家康から寺領七石の御朱印状を受領しています。
新編武蔵風土記稿による眞照寺の縁起
(引田村)眞照寺
村の東にあり、新義眞言宗、同郡横澤村大悲願寺の末山なり、御朱印寺領七石、引田山金蓮院と號す、もとは金華山と云しが、いつの頃か今の山號となる、寛平三年の起立にして、開山の僧は義寛と云へり、この僧は同き九年七月廿一日寂す、延文元年鎌倉公方左馬頭源基氏再建ありとて、今も起立再建二度の棟札を蔵せり、その文末に出す、又正慶元年の鐘銘もあれば、延文の再造は疑なきもの也、本尊薬師行基菩薩の作なり、本堂九間に六間半、南向、前に門あり、大門前三町ばかりの直道にして、秋留川まで見わたすほどいとひろき境地なり、境内秋川向に日照山と云處ありこの所に往古は本堂ありしとぞ、此寺に正慶元年に鐫たる鐘ありしあ、今はうせて伊豆國伊豆権現の別當般若院と云へる寺にありといひ傳ふ、故に天明年中伊豆権現へ詣でで、かしこの僧にこの事を尋ければ、件の鐘も現にあり、又口碑にも武蔵の日照山と云所より、亂世の頃何ものか持来たる陣鐘なりといひ傳へり、されど銘文は刻したれど寺號もなく、國郡村名もみえざれば、定かなることはしるに由なし、
薬師堂。境内本堂の後にあり三間四方の堂なり、是は寛平年中造立の柱を用ゐて、延文中に再建せし堂なりと云へり、其柱虫穴などありて古色にみゆ、寛平延文兩度の棟札あり、
鐘樓。本堂の傍にあり、寛政二年鑄造の鐘なり、この鐘樓のはじめて立しはいと古きことにや、今寺につたへしものの中に、正慶年中に鑄しときの鐘銘あり、さればそのころよりありし鐘を、後世しばしば鑄直せしなるべし、かの銘文は左にのせり、(銘文省略)今の銘文は考證に益なければ略せり、
阿彌陀堂。境内にあり二間四方、
三島明神社、稲荷社、天満宮。以上三社はみな小社にて、境内にあり、(新編武蔵風土記稿より)
「秋川市史」による眞照寺の縁起
真照寺(引田八六三番地)
山号は引田山、院号は金蓮院といい、真言宗豊山派に属している。山号は金華山と号したときもあったと『新編武蔵風土記稿』は記している。また「武蔵名勝国会」は「古えの山号は日照山と号し」ともしているが、創建が古いので、山号もかわったのであろう。
もとは五日市町横沢の大悲願寺末であった。本尊は不動明王(木像坐像)である。この像は慶長十年(一六〇五)十二月、当寺三十一世盛源の発願で、仏師丹後によって作られたもので、高さ九寸五分(約三十センチ)である。
本寺の創建は古く平安時代に遡る、寛平三年(八九一)義寛によって創建されたと伝えられているが、義寛は寛平九年(八九七)七月二十一日に入寂している。
その後延文元年(正平十一年<一三五六>)関東管領足利基氏によって再興された。
再建当時は秋川丘陵の渕上の日照山の頂上にあった。
享禄四年(一五三一)火災にあって、宝物や古記録は悉く焼失したので、現在地、引田の静の郷に移ったという。本堂は延享三年(一七四六)再建されたと伝えられている。
天正十九年(一五九一)十一月徳川家康から寺領七石の朱印を賜わっている。これは幕末まで引き続き受領していて、『旧高旧領取調帳』にも、「真照寺領七石」とある。
境内に有名な薬師堂がある。日照山上で焼け残ったのを、現在地に移したという。この薬師堂一は昭和二十八年(一九五三)十一月三日都有形文化財(建造物)の指定を受けている。
薬師堂は屋根は宝形造り、三間四面、間口、奥行ともに約四・四二メートル(約一九・六平方メートル)外回り切目縁付き、軒回わり柱上部に舟肘木があり、建築年代は室町時代と思われる。
『新編武蔵風土記稿』は、「是は寛平年中造立の柱を用いて、延文中に再建せし堂なりと云へり、其柱穴などありて古色に見ゆ」と江戸中期には、古色に見えたことを記している。
この「延文中の再建」は寺伝では延文元年(一三五六)関東管領足利基氏によって建立されたとしている。その棟札の写しが寺にあるが左のようになっている。
延文元丙申年 引田山金蓮院
奉再興薬師堂一宇 天長宝祚武運長久
八月吉祥日大檀那足利氏基氏再興也
昭和四十四年(一九六九)には、解体修理が行われ、屋根はもとのカヤぶきから、銅板ぶきに改められた。
なお中には引田にいた万鍛冶宮川吉国が寄進した厨子があって、薬師堂とともに、都の有形文化財の指定を受けている。
なお貴重な文化財に絵馬板木がある。これは『新編武蔵風土記稿』によれば、真照寺持であった日吉山王社にあったものである。
この板木は天正年聞に作られたもので、表に猿が馬を社前に曳いた図が彫ってあって、裏にはその由来が彫ってある。縦二三・九センチ、横一六・八センチ、厚さ一・五〜八センチである。絵馬の裏書は(書面省略)
となっている。
『武蔵名勝図会』には「この絵馬の板木は村民等養蚕の祈願に乞い求める故、寺より摺り与うること久しければ、大抵減して詳かならず。天正十七年(一五八九)に奉納せしものなり」とある。この絵馬はここ近年まで、農民の信仰があつく、摺られて配られていたのであった。(「秋川市史」より)
眞照寺所蔵の文化財
- 真照寺薬師堂(東京都指定有形文化財)
- 真照寺山門一棟(あきる野市指定有形文化財)
真照寺山門一棟
薬師堂(東京都指定有形文化財)に伴う門として、元禄元年(一六八八)に建立されました。
構造は、本柱の前後に二本ずつ計四本の控柱を持つことから四脚門と呼ばれ、和様を基本としています。当初より彩色が施されていたようで、部材の保存状態も良く、江戸時代中期初めの特徴を良くとどめています。
また、棟札により建立年代、寄進者、住職、大工名もわかり、歴史資料としても貴重です。(あきる野市教育委員会掲示より)
眞照寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「秋川市史」