大悲願寺|あきる野市横沢にある真言宗豊山派寺院

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金色山大悲願寺|源頼朝檀越、多摩八十八ヶ所霊場59番、武蔵五日市七福神

大悲願寺の概要

真言宗豊山派寺院の大悲願寺は、金色山吉祥院と号します。大悲願寺は、源頼朝が檀越となり、澄秀を開山として、平山季重が建久2年(1191)に創建したといいます。その後四世澄遍が延文5年(1360)に再興、関東管領足利基氏・氏満父子から寺領20石を寄進を受け、徳川家康が関東入国した天正19年(1591)にも20石の御朱印状を受領、近隣に末寺32ヶ寺を擁していました。多摩八十八ヶ所霊場59番、武蔵五日市七福神の大黒天です。

大悲願寺
大悲願寺の概要
山号 金色山
院号 吉祥院
寺号 大悲願寺
住所 あきる野市横沢134
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



大悲願寺の縁起

大悲願寺は、源頼朝が檀越となり、澄秀を開山として、平山季重が建久2年(1191)に創建したといいます。その後四世澄遍が延文5年(1360)に再興、関東管領足利基氏・氏満父子から寺領20石を寄進を受け、徳川家康が関東入国した天正19年(1591)にも20石の御朱印状を受領、近隣に末寺32ヶ寺を擁していました。

新編武蔵風土記稿による大悲願寺の縁起

(横澤村)
大悲願寺
村の東南の方にあり、金色山吉祥院と號す、新義眞言宗、京都醍醐三寶院の末なり、開山澄秀僧正建久二年當寺を創し、貞應元年十二月八日寂せり、開基は右大将賴朝なりといへど、たしかなる證迹はなし、されど貞治の頃平氏重が書寫してをさめし大般若あるをもて、ふるき寺なることしるべし、又天正十八年の禁制の文に、吉祥院とあり、又明る十九年寺領二十石の御朱印を賜ふ、その文にも寄進す吉祥院武蔵國多西郡秋留郷横澤之内二十石云云とあり、是によれば昔は院號を以行はれしことゝ見えたり、今は寺號を通稱となせり、天正十八年太閤秀吉より出す制札を蔵す、左の如し(制札文面省略)
又同き年の六月、上杉宰相加賀筑前守木村常陸介大将として、八王子を襲ひし時も、禁制の書を出せしとて蔵せり、其文に(禁制文面省略)
寺寶
御團扇一
東照宮より賜ひし由いひ傳へり、大さ八寸許、あしろ組の如くにして居ろはとび色なり、中に金粉を以径り五寸許なる葵御紋を印せり
袈裟一
これも東照宮より賜はりしと、葵御紋を織出せり、
旗二流、大猷院殿御寄附ありし由いへり、白地の錦にて上の金具に葵の御紋を鐫せり
大般若經一部
巻末に惣奉行三百、内大檀那兵部少輔正五位平朝臣氏重、貞治五年丙午二月日書寫と記せり、
一切經一部
茶碗一
賴朝所持のものを寄進すといふ、黒塗の碗にて縁に金を張てあり、
伊達正宗書翰一通
表門
長屋門なり、二間に十間、
樓門
五間に二間、金色山の三字を遍す、下に仁王の木像長八尺許なるを左右に置く、上に一切經を蔵め、傳大士普成普建の木像を置き、後背に弘法大師の木像を安す、
中門
本堂の前にあり、兩柱の間二間、吉祥院の三字を遍せり、共に當寺の住僧如環が筆なり、
本堂
十三間半に七間半、大僧正了怒が筆にて大悲願寺の四字を遍す、本尊大日木の坐像長五尺を安す、作知ず、
鐘樓
九尺に一丈二尺、鐘の長四尺、圓徑二尺五寸、銘文あり、左の如し(銘文省略)
觀音堂
本堂の西にあり、六間四方、千手観音の立像長五尺許なるを安置す、行基菩薩の作といへり、是餘同じ、觀音の畫像一幅、聖徳太子の畫にしてかけをけり、(新編武蔵風土記稿より)

「五日市町史」による大悲願寺の縁起

大悲願寺
(横沢一三四)真言宗豊山派、金色山吉祥院と号し、本山は大和の長谷寺である。開山の澄秀が醍醐の三宝院に関係あったため、長く同院末であったが、明治二十九年二月、長谷寺に変わった。本町第一の古刹である。
開創に関しては聖徳太子が全国行脚の際、この地に一宇の草堂を建て、それが元であるとの伝承もあるが、それはとにかくとして、現在も寺の後方の山合いに「草堂の入」という地名が残っていることからみれば、古くから何らかの草堂のあったことはうかがえる。史実としては建久二年(一一九一)、源頼朝が檀越となり、洛陽の人と言われる澄秀を開山として、平山季重が創建したという寺伝に目安をおくべきであろう。
本堂は間口一三・五間、奥行七・五間、度々の改修があったが、現存のものは元禄八年(一六九五)再建のものである。本尊は大日如来、開創当初は醍醐から澄秀が持参した千手千眼観世音菩薩の画像を本尊としたと伝えられているが、この画像も聖徳太子の筆に成るものだとの伝承がある。
文永十年(一二七三)頃から約百年近くの間、寺運が非常に衰微したが、延文五年(一三六〇)、四世の澄遍が吉祥院を再建したり、鋭意復興に努力し、醍醐三宝院の印可を受けて再興した。これによって澄遍を「再興の開山」と呼んでいる。関東管領足利基氏・氏満父子から秋留郷内に寺領二〇石の寄進を受け、代々それを受けついで明治維新まで続いた。
ところが明治初年、神仏分離令の発令と共に、廃仏段釈などの時代思潮の影響もあり、三二か寺もあった末寺も半減、檀家も減少、寺領も没収されるなどによって、寺運は難渋し極度に傾いた。しかし請願その他により神奈川県令中島信行も協力し、旧寺領の払い下げも実現、逐次好転して鐘楼その外建物の整備にも努め、明治十五年(一八八二)には、それまで長く呼んでいた「吉祥院」の呼び名を、旧名の「大悲願寺」に復し、現在に至っている。
二十四世如環は当町高尾の出身で、菩提寺大光寺の住職了盛について得度し「無端」とも号し、享保十七年(一七三二)大悲願寺に晋山、寺運興隆のため非常に活躍した。過去帳を整理したり(八王子落城の犠牲者五百余名の連名もあり)末寺の僧を集めて研修論講を行うため、自ら木活字を作って(現存)テキストを印刷した。出版は十数論講、紙数一〇七枚に及ぶものであり、いずれも本寺に現存している。このため「活版僧」のニックネームもあった。その外、仁王門(寛政九年造)の改修、その楼上に一切経安置の輪蔵設置(元文三年)、長屋門の再建(寛保二年)、鐘楼・庫裡の改築等、伽藍の整備にも努めた。現在の仁王門はその後文久二年(一八六二)改修のものである。格天井の絵は隣村平井村出身の絵師森田五水の筆である。
仁王門(山門)をくぐって正面の建物が観音堂であり、「無畏閣」の掲額がある。全部塗装され斗栱・欄間の彫刻等も見事である。現在の建物は寛政六年(一七九四)改築のものであり、昭和四年にも修理されている。本尊は「伝阿弥陀如来三尊像」と称され、中央阿弥陀如来(八九センチ)、脇侍千手観世音菩薩(五九センチ)、勢至菩薩(六一センチ)の三坐像である。平安末期から鎌倉期にかけての作と言われているが、作者は未詳である。但し向背は文政十一年の作である。昭和三年八月、国重要文化財に指定された。
本堂前の庭先に立札で示した「臥竜梅」がある。これは昭和四十八年(一九七三)、仙台市から贈られたもので、このいきさつについては伊達政宗にからむ因縁があり、別項「余所者往来」に詳記して、ここでは省略する。
なお、文政六年(一八二三)の春、多摩郡一帯を範囲として「新四国八八番巡礼札所」なるものを定め(『桑都日記』による)、その第一番が本寺で、第二番が伊奈の成就院、第三番が高尾の大光寺(第四番畳原正福寺)、第五番が盆堀の西蓮寺であった。(「五日市町史」より)


いいお墓

大悲願寺所蔵の文化財

  • 大悲願寺本堂(東京都指定文化財)
  • (伊達政宗白萩文書を含む)大悲願寺文書一括(東京都指定文化財)
  • 仁王門 天井絵(あきる野市指定文化財)
  • 大悲願寺楼門(仁王門)一棟(あきる野市指定文化財)
  • 大悲願寺観音堂一棟(あきる野市指定文化財)
  • 梵鐘(あきる野市指定文化財)
  • 大悲願寺中門(あきる野市指定文化財)
  • 如環版木活字並びに活版本(あきる野市指定文化財)
  • 金色山過去帳六巻(あきる野市指定文化財)
  • 懐中仏(あきる野市指定文化財)
  • 大悲願寺棟札四枚(あきる野市指定文化財)
  • 観智国師書状(あきる野市指定文化財)
  • 六角宝幢式経筒(あきる野市指定文化財)
  • 伊奈石井戸枠(あきる野市指定文化財)

大悲願寺本堂

建築年代は元禄八年(一六九五)八月で、高尾村左衛門次郎久重ほか十二名の大工と十四名の木挽によって建築されたものである。
書院造り風の方丈系講堂様式本堂で、屋根は入母屋造り、茅葺型銅版葺となっている。
内部は六間取形式で、規模は桁行柱真々二三・八四めーとる、梁間柱真々一三・四二めーとる、面積三一九・九三平方メートルである。
特に内部は建設当初の姿をよく保っており、方丈系本堂建築としてこの地方の代表的な建物の一つである。(東京都教育委員会掲示より)

仁王門 天井絵

この仁王門は安政六年(一八五九)再建されたが、天井絵の作成も同年である。
中央通路の格天井は大日如来の梵字を囲んで草木の花が描かれている。一隅に「狩野養信門人藤原善信」の銘があるが、彼は現五日市小庄の人、郷土の画家である。
また仁王像の天井には右天女、左迦陵頻伽(極楽の鳥)が描かれている。作者は現日の出町平井千石の人森田五水。彼は幕末期狩野派画家として、多摩地域に盛名があった。北側袖天井の雲竜図も五水の手になり、見事な筆勢である。(あきる野市教育委員会掲示より)

大悲願寺楼門(仁王門)一棟

慶長十八年(一六一三)に建てられた後、寛文九年(一六六九)に再建されました。現在の建物は安政六年(一八五九)に建てられたものです。
構造は三間一戸の入母屋造で、銅板葺です。両脇には仁王像が安置され、幕末期の絵師藤原善信、森田五水により、見事な天井絵(市指定文化財)が描かれています。
また、各所に施された彫刻も見事で、幕末期の特色をよく示しています。(あきる野市教育委員会掲示より)

大悲願寺観音堂一棟

この観音堂は「無畏閣」とも呼ばれます。寛政六年(一七九四)に建立され、文政十年(一八二七)に向拝(ひさし部分)が取り付けられました。堂の内外には各所に彫刻が飾られ、特に正面欄間の地獄と極楽を表した彫刻は見事です。
昭和二七年に、それまでの寄棟造の茅葺から宝形造の本瓦葺に変えられていましたが、その後、柱の沈下や屋根のいたみ等が進んだため、平成一六年から一八年にかけて、大規模な修復工事が行われ、これによって建立時の寄棟造の茅葺型銅版葺で復原されました。また、外面の彫刻は色の剥落が激しかったため新たに彩色が施され、往時の姿が甦りました。堂内部の彫刻は当初の色が残されていたため、それを保護する処置が施されています。
江戸後期の様式を留めた貴重な建造物です。
(観音堂の中には、国指定重要文化財である「木造伝阿弥陀如来及び脇侍 千手観世音菩薩・勢至菩薩坐像」が安置されています。)(あきる野市教育委員会掲示より)

梵鐘

当山一八世住職法印信盛の発願により、寛文十二年(一六七二)八月六日、横川(現八王子市)の治工加藤五郎衛門尉宗次が鋳造。銘文は真言宗豊山派の総本山長谷寺小池坊の前住信海僧正の撰文による、江戸時代は時鐘として朝夕近隣の村人に親しまれた。
幸いにして、第二次大戦中の供出も免れた。当地方としては鋳造年次の古い名鐘である。(あきる野市教育委員会掲示より)

大悲願寺中門

棟木に記された墨書から安永九年(一七八〇)に建てられたことがわかります。
構造は一間一戸の切妻造で、本柱の前後に二本ずつ計四本の控柱をもつことから四脚門と呼ばれます。
随所に見事な彫刻が施されており、禅宗様建築の影響を強く受けた、江戸時代後期の貴重な遺構です。(あきる野市教育委員会掲示より)

如環版木活字並びに活版本

当山二四世住職如環の作製した木製活字並びにその活字によって印刷した活版本、寺院経営・弟子養成に出色の業績を残した如環師の創意工夫が窺われ、当山は檀林(僧侶養成寺院)であった証拠ともなる文化遺産。(あきる野市教育委員会掲示より)

金色山過去帳六巻

一三世海誉が筆をおこした天正期の古過去帳、二四世如環の改定過去帳、他に歴代住職が記入した明治期までの過去帳、欄外注記にみる北条氏滅亡に殉じた当地方の地侍の記録や折々の自信・大火他社会事象の記録が郷土史資料として注目されている。(あきる野市教育委員会掲示より)

懐中仏

木版に不動明王と脇侍の二童子を浮き彫りにし懐中仏(携帯用の仏像)で、巧妙精緻な作品、一四世紀頃の作と推定される。(あきる野市教育委員会掲示より)

大悲願寺棟札四枚

(1)本堂破風修造 天文十六年(一五四七)
(2)本堂の縁・天井改修 慶長二年(一五九七)
(3)金色山楼門棟札(仁王門) 寛文九年(一六六九)
(4)本堂建築 元禄八年(一六九五)
数少ない中世期の棟札も含まれ、当山建造物の由来を実証するにとどまらず、当地方歴史文化を探るうえでの貴重な資料。(あきる野市教育委員会掲示より)

観智国師書状

観智国師源誉存応上人(芝増上寺一二世住職)は徳川家康の信頼篤く、幕府の寺院政策に少なからぬ影響を与えた傑僧。彼は当山一三世海誉の伯父で、書簡は肉親の情愛の窺える内容。当山が僻地にあって、なお高い寺格を保持し得たのは両者の人脈が原因の一つと考えられる。(あきる野市教育委員会掲示より)

六角宝幢式経筒

総高一四・五センチ、筒身一面の幅二・五センチ銅版製六面の経筒で、経文を入れ、経塚に埋納するときの容器。本品は天正十三年(一五八五)の刻銘があり、当時の信仰上の習俗を伝える資料。(あきる野市教育委員会掲示より)

伊奈石井戸枠

この井戸は、「宝永二年(一七〇五)二月の庫裡裏に彫り四月完成」と当山過去帳に記されている。(現在は庫裏表にも同型の井戸がある)信州伊奈とゆかりの深い伊奈石は主な切出地が当山裏山にあり、当山では墓石から長屋門の敷石まで、随所に使用しているが、伊奈石の井戸枠は珍しい。(あきる野市教育委員会掲示より)

伊達政宗白萩文書

仙台藩主伊達政宗が大悲願寺に宛てた書簡である。当山一三世海誉上人の時代で、たまたま政宗の末弟秀雄が上人の弟子として在山したという。また政宗は川狩りを好んだともいわれる。内容は先日訪問した折、庭の白萩が見事であったが、その白萩を所望したいという主旨である。年次は「政宗公実記」より元和九年(一六二三)と推定される。(境内掲示より)

大悲願寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「五日市町史」