流澤山成就院|あきる野市伊奈
成就院の概要
真言宗豊山派寺院の成就院は、流澤山寶積寺と号します。成就院は、大悲願寺第七世重賢僧正が大悲願寺を退山して後、文明元年(1469)に創建、明治6年の大火により廃寺状態となっていたものの、大悲願寺第三十五世章一大僧正が昭和59年に再建したといいます。
山号 | 流澤山 |
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院号 | 成就院 |
寺号 | 寶積寺 |
住所 | あきる野市伊奈1568 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
成就院の縁起
成就院は、大悲願寺第七世重賢僧正が大悲願寺を退山して後、文明元年(1469)に創建、明治6年の大火により廃寺状態となっていたものの、大悲願寺第三十五世章一大僧正が昭和59年に再建したといいます。
新編武蔵風土記稿による成就院の縁起
(伊奈村)
成就院
除地、九畝十八歩、小名上宿にあり、流澤山寶積寺と號す、新義眞言宗、横澤大悲願寺末、本堂八間に六間南向なり、本尊不動木の坐像にて、長五尺許、開山詳ならず、
閻魔堂。境内に入て左にあり、二間四方なり、(新編武蔵風土記稿より)
「五日市町史」による成就院の縁起
掲載なし(「五日市町史」より)
境内石碑による成就院の縁起
真言宗豊山派流澤山寶積寺成就院
當山は新義真言宗豊山派大悲願寺の末寺で文明元年(一四六九年)十一月精舎一宇を建立流澤山寶積寺成就院と号す。開基の本願は重賢僧正なり。師は本寺大悲願寺第七世の住僧で退山後造寺の宿望を成就。年移り延享三年(一七四六年)烏有に遭遇、再度伽藍(八間・六間)を建立するも明治六年(一八七三年)伊奈大火の為、本堂西側二間四方の閻魔堂共々焼失、昭和五十九年(一九八四年)大悲願寺第三十五世章一大僧正により再建。
本尊は木造不動明王で矜羯羅童子・制多迦童子両童子を侍す像高五尺あまりの座像なり、江戸中期の作なれど正確な作者、製作時期は不詳なり(境内石碑よより)
成就院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「五日市町史」