草花山花蔵院|開明学校花蔵院分教場
花蔵院の概要
真言宗豊山派寺院の花蔵院は、草花山と号します。花蔵院の創建年代等は不詳ながら、利栄上人が弘長4年(1264)に開基したと伝えられ、権大僧都法印清満上人(寛文元年1661年寂)が開山、園花山明王寺花蔵院と号して小名花ノ岡にあったといいます。戦国時代には北条氏照の祈願所だったとも伝えられ、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領5石の御朱印状を受領していました。江戸時代末期頃に当地へ移転、明治16年開明学校花蔵院分教場が当寺に開校、明治24年まで供用されていました。
山号 | 草花山 |
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院号 | 花蔵院 |
寺号 | - |
住所 | あきる野市草花1740 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
花蔵院の縁起
花蔵院の創建年代等は不詳ながら、利栄上人が弘長4年(1264)に開基したと伝えられ、権大僧都法印清満上人(寛文元年1661年寂)が開山、園花山明王寺花蔵院と号して小名花ノ岡にあったといいます。戦国時代には北条氏照の祈願所だったとも伝えられ、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領5石の御朱印状を受領していました。江戸時代末期頃に当地へ移転、明治16年開明学校花蔵院分教場が当寺に開校、明治24年まで供用されていました。
新編武蔵風土記稿による花蔵院の縁起
(下草花村)花蔵院
小名花ノ岡にあり、新義眞言宗、同郡大久野村西福寺の末山なり、園花山明王寺と號す、開山及び起立の年代を詳にせず、本尊不動木の坐像、長一尺六寸、智證大師の作なり、客殿五間に六間、南向なり、御朱印五石は村内にて領せり、(新編武蔵風土記稿より)
「秋川市史」による花蔵院の縁起
花蔵院(草花一七四〇番地)
山号は草花山、真言宗豊山派で日の出町大久野の西福寺末であった。『新縞武蔵風土記稿』は花蔵院の項に、「小名花ノ岡にあり、・・・園花山明王寺と号す」とある。
古くは花ノ岡にあって、園花山明王寺といったことがわかる。花ノ岡に創立されたのを現地に移築したのであるが、その年代は『新編武蔵風土記稿』の書かれた年代(文化七<一八一〇>~文政十一年<一八二八>)以後であるととはまちがいないが、その間の事情は詳らかでない。
本尊は木造不動明王坐像、高さ一尺六寸(約四八センチ)智證大師の作という伝承がある。寺伝によれば、弘長四年(一二六四)利栄上人の開基で、天正年間には北条氏照の祈願所だったといわれているが、不明の点も多い。
なお開山は権大僧都法印清満上人であるが、上人の示寂は寛文元年(一六六一)四月二十七日である。寺伝による利栄上人の開基という弘長四年(文氷元)(一二六四)から四〇〇年のへだたりがある。この間のことは記録がないので不明であるが、ただ入口に室町末期を下らぬといわれる四脚門がある。他から移建したとも考えられるが、寺の古さを示すものではなかろうか。
慶安二年(一六四九)御朱印五石を下附されている。
なおこの寺は明治十六年(一八八三)菅生・瀬戸岡・草花・原小宮・平沢の五か村連合の開明学校花蔵院分教場として開校、翌十七年には智進学校花蔵院分教場となって、明治二十四年(一八九一)まで、教育の場となっていた。(「秋川市史」より)
花蔵院所蔵の文化財
- 花蔵院山門(あきる野市指定文化財)
花蔵院山門
江戸時代中期の建立で、建築様式も当時の特徴を良く示している。用材はケヤキ材を主とし、当時としては格式高い門といえる。このようなほぼ正規な禅宗様形式の門は西多摩地区でもほとんど見当らないものであり、建築史的にも貴重である。
平成九年度に実施された解体修理の際に、拳鼻の裏面に墨書が発見され、建立が正徳三(一七一三)年十二月であること、大工は平井村(現日の出町平井)の萩原善兵衛であることが判明した。萩原善兵衛は享保五(一七二〇)年に青梅市勝沼の乗願寺山門も造っている。(あきる野市教育委員会掲示より)
花蔵院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿