真城寺|あきる野市上代継にある臨済宗建長寺派寺院

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興國山真城寺|江戸幕府より寺領7石2斗の御朱印状

真城寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の真城寺は、興國山と号します。真城寺は、復庵已大光(大光禅師)を開山として、足利基氏が開基となり観応2年(1351)に創建、天正7年(1579)に八王子城主北条氏照が再興、江戸期には、寺領7石2斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領しています。

真城寺
真城寺の概要
山号 興國山
院号 -
寺号 真城寺
住所 あきる野市上代継344
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



真城寺の縁起

真城寺は、復庵已大光(大光禅師)を開山として、足利基氏が開基となり観応2年(1351)に創建、天正7年(1579)に八王子城主北条氏照が再興、江戸期には、寺領7石2斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領しています。

新編武蔵風土記稿による真城寺の縁起

(上代繼村)
眞城寺
村の西の方にあり、禅宗臨済派、同郡戸倉村光嚴寺の末山なり、慶安年中寺領七石二斗の地を御朱印村内にて賜ふ、興國山と號す、開山復庵已大光、延文二年九月二十六日寂、開基は北條氏照なりと云ど、年歴も合ざれば氏照中興の開基なるか、今よりは考ふべからず、本尊地蔵木の坐像、長八寸、本堂七間半に五間半、南向、
薬師堂。門を入て正面にあり、一間半四方の堂なり、薬師は坐像、長一尺二寸許り、(新編武蔵風土記稿より)

「秋川市史」による真城寺の縁起

真城寺 代継三四四番地
山号は興国山という。臨済宗建長寺派である。かつては五日市町戸倉の光厳寺末であった。本尊は延命地蔵菩薩である。
開基は足利基氏という。尊氏の子で初代の鎌倉公方である。観応二年(一三五一)基氏は復庵宗己和尚を請じて開山とし、当寺を創立したという。
開山の復庵宗己禅師(大光禅師)は、五日市町山田にある瑞雲寺の開山でもある。常陸国水戸の法雲寺開山の高僧で、延文二年(正平十二年<一三五七>)九月二十六日に示寂している。
その後、星霜を経る中、当寺も衰退したが天正七年(一五七九)八王子城主北条氏照によって再興されたと伝える。
一説には氏照の家巨大石遠江守玄光なる人物の再建と伝えるし、真城寺の『過去帳』は、北条氏照が大石遠江守玄光を名乗ったとしている。何れにしても北条氏照の回向位牌があるから、氏照の援助のあったことはまちがいないであろう。
天正十七年(一五八九)と文政二年(一八一九)の前後二回火災にあったため、『過去帳』を除き、古記録を全部焼失したため、由緒などは不明である。現在の本堂、庫裡は文政四年(一八二一)ごろの建造である。
慶安二年(一六四九)八月二十四日、三代将軍家光より寺領として、七石二斗の御朱印地を賜っている。
文化財に北条氏照の回向位碑がある。氏照の回向のためにつくられたもので高さ約五〇センチ、表に「当寺開基青霄院殿透岳関公大居士」裏に「天正十八庚寅天七月十一日」と彫られている。
境内に宝箆印塔が二基ある。いずれも室町時代のものであるが、かなり荒廃している。一基は寺の開基足利基氏の妻瑞雲尼の墓、他の一基は従者の墓としている。応永十四年(一四〇七)の年号がある貴重なものである。(「秋川市史」より)


真城寺所蔵の文化財

  • 真城寺のシダレザクラ(あきる野市指定天然記念物)

真城寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「秋川市史」