三栄山大正寺|調布七福神の恵比寿神、栄法寺・寶性寺・不動院が大正4年に合併
大正寺の概要
新義真言宗寺院の大正寺は、三栄山と号します。大正寺は、廣福山栄法寺と、紫雲山寶性寺、三栄山不動院の3ヶ寺が大正4年に合併、三栄山大正寺として創建しました。栄法寺は、当寺境内にもとよりあり、現在は墓域となっていますが、布多天神社の別当寺を務めていたといいます。現本堂は、栄法寺の本堂を、観音堂は不動院より移設したものといい、観音堂は多摩川三十三観音霊場8番札所に、当寺の恵比寿神は調布七福神の恵比寿神となっている他、多摩八十八ヶ所霊場5番札所となっています。
山号 | 三栄山 |
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院号 | - |
寺号 | 大正寺 |
本尊 | - |
住所 | 調布市調布ヶ丘1-22-1 |
宗派 | 新義真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 多摩八十八ヶ所霊場5番、多摩川三十三観音霊場8番、調布七福神の恵比寿神 |
大正寺の縁起
大正寺は、廣福山栄法寺と、紫雲山寶性寺、三栄山不動院の3ヶ寺が大正4年に合併、三栄山大正寺として創建しました。栄法寺は、当寺境内に当初よりあり、現在は墓域となっていますが、布多天神社の別当寺を務めていたといいます。現本堂は、栄法寺の本堂を、観音堂は不動院より移設したものといい、観音堂は多摩川三十三観音霊場8番札所に、当寺の恵比寿神は調布七福神の恵比寿神となっている他、多摩八十八ヶ所霊場5番札所となっています。
「調布市百年史」による大正寺の縁起
大正寺(上布田)
布田天神社参道に面して建っている。
三栄山大正寺と号し、新義真言宗豊山派。
<本尊>大日如来
この寺は、古くから布団小島分の上布田宿境にあった三栄山不動院寿福寺(新義真言宗)、下布田の紫雲山宝性寺(新義真言宗)、上布田の広福山常行院永(栄)法寺(新義真言宗)の三寺を合併し、大正四年創設されたものである。現本堂前に、大正四歳次乙卯三月一九日銘の三寺の碑に、その由来を記している。
合併された三寺のうち、不動院については開山開基が明らかでなく、過去帳にも法印源春が寂した天正一八年(一五九〇)三月一九日より古いものは載っていない。
客殿六間半に六間、本尊は良弁作の不動立身木像で、長さ一尺二~三寸ある。宝性寺の縁起は明らかでない。
栄法寺は、明治初年、神仏分離のときまで布多天神社の別当であり、『武蔵名勝図会』に、
寺伝云往古菅原家の末孫にて永法房という人、一条院の永延年中(九八七~九)ここに庵室を結びし跡を改めて、広福山常行院永法寺と号すと云。文明年中(一四六九~八七)天神社をここに移すとき、この寺も同じく移すと云。
とあり、以前は布多天神社の旧跡といわれる古天神に並ぶ、小島分槙山栄法寺跡のあたりにあったものと思われる。
山号については調布に残る広福長者に発し、寺号については、永法寺再建に貢献した原氏(年代不詳)に寺号の永法を贈り、原永法と名のらしめ、寺名を栄法寺と改めたと伝えられる。
なお、現本堂は、この栄法寺を改築したものという。
境内に小祠二・名号石・庚申塔・宝性寺檀信徒各其供養塔・観音堂・前記三寺の碑・本堂庫裡など修改築記念碑がある。この記念碑文に、本堂は旧栄法寺本堂で文政一〇年(一八二七)造営され、昭和三四年改修起工、客殿・庫裡同年新築起工、同三六年一一月五日落成とある。
観音堂は旧不動院の本堂。長く本町役場として小島分にあった由緒ある建物で、安置されている本尊は、大山不動尊と同木の物を彫刻、製作したといわれる。前面に多摩八十八カ所第五番札所とし次の賛歌を書いた奉納額がかかっている。
ろくどうののりけのぢぞうだいぼさつ
みちびきたまへこのよのみち(「調布市百年史」より)
合併した栄法寺の縁起
(上布田宿布多天神社)別当栄法寺
除地、3段9畝27歩。本社の東にあり。新義真言宗都筑郡麻生村王禅寺の末、廣福山常行院と号す。開基の由緒慥ならずといへども、縁起に載する処は前條の如し。法流開山は宥誉とて、享保10年4月3日寂す。本尊木の坐像長2尺5寸、客殿7間半に5間。(新編武蔵風土記稿より)
合併した寶性寺の縁起
(下布田宿)寶性寺
境内除地、3段。是も(蓮慶寺と同じく)街道にあり、紫雲山と号す。新義真言宗、都筑郡王禅寺村王禅寺の末、開山開基つまびらかならず。(新編武蔵風土記稿より)
合併した不動院の縁起
(小島分村)不動院
境内除地、6段3畝。上布田宿境にあり。三栄山壽福寺と号す。新義真言宗、都筑郡王禅寺末。開山開基詳ならず。過去帳に法印源春天正18年3月19日寂すとみえたり。それより古きものを載せず。客殿6間半に6間。本尊不動立身の木像長1尺2.3寸、朗弁の作といふ。上給村に国領宿の地あり。其所に不動野といふ所あり。当院の旧地なりと傳ふ。いつの頃かこの地に移りしや。その年暦を失へり。
地蔵堂。除地、1段5畝23歩。2間四方、街道の中央北側にあり。村持。(新編武蔵風土記稿より)
大正寺所蔵の文化財
- 布田郷学校跡
布田郷学校跡
郷学校とは、江戸時代中期ごろから明治時代前期にかけての教育機関のことで、寺子屋や私塾より公共性が高く、近郷でも数校を数えるにすぎない特色ある教育施設であった。
布田郷学校はそのなかの一つで、上布田の住人原豊穣の設立した育英学校を、明治4年(1871)栄法寺を校舎として開設された。
栄法寺は、大正4年、町内の他2ヶ寺と合併して現在の大正寺と改名されたが、山門、本堂は寺域の北にあった栄法寺のものを今の位置に移築したものである。
布田郷学校は、発足するにあたり、原豊穣等五宿の有力者たちが中心となって、近郷の村々の協力を得て開校したものであるが、この郷学校は養豚所を経営することによって得た収益を学校の運営費にあて、授業料を一切とらなかったという特色のある学校であった。養豚所の経営不振から明治7年閉鎖し、公立布田学校(現在の第一小学校の前身)となるまで、公立学校に代わる重要な役割を果たしてきた。(調布市教育委員会掲示より)
大正寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿