尉殿神社|江戸時代初期に田無神社を勧請、上保谷村鎮守
尉殿神社の概要
尉殿神社は、元和8年(1622)谷戸にあった尉殿大権現(現田無神社)を分祀、上保谷村の鎮守として創建したと伝えられます。祭神の級長津彦命と級長戸辺命のうち級長津彦命を谷戸尉殿権現(現田無神社)へ遷し、上保谷と谷戸の夫婦神としました。
社号 | 尉殿神社 |
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祭神 | 級長戸辺命、大日霊貴命(天照大神) |
相殿 | - |
境内社 | 第六天神2社、稲荷神社3社 |
住所 | 西東京市住吉町1-21-1 |
祭日 | 例大祭10月1日 |
備考 | 上保谷村鎮守 |
尉殿神社の由緒
尉殿神社は、元和8年(1622)谷戸にあった尉殿大権現(現田無神社)を分祀、上保谷村の鎮守として創建したと伝えられます。祭神の級長津彦命と級長戸辺命のうち級長津彦命を谷戸尉殿権現(現田無神社)へ遷し、上保谷と谷戸の夫婦神としました。明治40年に神明社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による尉殿神社の由緒
尉殿権現社
境内除地2段、青梅街道の北側にあり。村の鎮守なり。大門の通り四十間許。社は3間に5間半。前に鳥居を立。縁起等なければ鎮座の年月も知べからず。村内寶晃院持。
庵。
鳥居に向て左にあり。小庵なり。社を守る人ここに居れり。(中略)
第六天社
村内寶晃院持。下二社も同じ持なり。
稲荷社2社。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による尉殿神社の由緒
建長年間(1249-1256)鎮座せしとの伝承あるも、昭和48年発見による当社別当(寶晃院住職)の当寺要用書写し帳(文政十亥年1828)によれば次の記事あり。
尉殿権現
級長殿尊世是は肥前国吉備神朝嶺に戸挟大明神と奉ニ崇敬。日向国小戸樟ヶ原に尉殿権現奉祝武州三峯にも奉崇敬候也。
維元和8年(1622)2月吉祥日
御除地社地2反歩とあれば元和8年2月吉祥日勧請せしものと推定される。(境内掲示より)
尉殿神社所蔵の文化財
- 石燈籠一対(西東京市指定文化財)
石燈籠一対、天和2年(1682)建立
尉殿神社は永正2年(1505)の創建と社伝されます。
保谷の歴史を鎌倉時代末期から室町時代にかけて建てられた板碑や、「熊野那智大社文書」「小田原衆所領役帳」などに記載された「保谷」によって検証したとき、この神社が中世の末期、上保谷に祀られていた杜伝は不自然でなく、しかも永正2年に村鎮守となった可能性が高いようです。それから177年後の江戸時代初期天和2年、「上保谷村惣氏子」と銘文された石燈籠が寄逢されました。中世末期から村鎮守としての歴史を経て、一村をまとめた「惣氏子」という表現になったものと考えられます。
石燈籠銘文(左右同文)
天和二年壬戊九月吉祥日
尉殿権現宮御賓前祈願成就所
奉寄進燈籠二基造立之
武州新倉郡上保谷村惣氏子敬白
尉殿神社は江戸時代が終わるまで、本地垂迹思想=神仏習合にもとづいて尉殿権現と称され、上保谷村草創のころ、なくてはならない生活用水を守護する、水の神ジョードノを祀ったことにはじまります。江戸時代その本地の神体は仏教の水の守護神倶利迦羅不動明王(西東京市指定丈化財第三十号「木彫彩色倶利迦羅不動明王像」寶晃院蔵)であり、垂迹=権現の神は龍田風神(奈良県生駒郡龍田神社)の祭神級長津彦命と級長戸辺命の男女二座でした。(西東京市教育委員会掲示より)
尉殿神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿