日枝神社水天宮|中島筑後守信尚が社殿を造営、上中下清戸村の鎮守
日枝神社水天宮の概要
日枝神社水天宮は、清瀬市中清戸にある神社です。日枝神社水天宮は、天正7年(1579)中島筑後守信尚が社殿を造営して山王社として創建、江戸時代には上中下清戸村の鎮守社であったといいます。明治時代に入り水天宮の分霊を勧請して境内に奉斎したといいます。
社号 | 日枝神社 |
---|---|
祭神 | 大山咋神 |
相殿 | 大己貴神 |
境内社 | 御嶽神社、白山社、金刀比羅神社、八雲神社、御霊社 |
住所 | 清瀬市中清戸2-616 |
祭日 | 春例祭日:4月15日 |
備考 | 旧上中下清戸村の鎮守 |
日枝神社水天宮の由緒
日枝神社水天宮は、天正7年(1579)中島筑後守信尚が社殿を造営して山王社として創建、江戸時代には上中下清戸村の鎮守社であったといいます。明治時代に入り水天宮の分霊を勧請して境内に奉斎したといいます。
新編武蔵風土記稿による日枝神社水天宮の由緒
(中清戸村)山王社
除地、七石、本社七尺四方、拝殿三間に二間半南に向ふ、神体木の立像にて長二尺許、前に鳥居をたつ、上中下清戸の鎮守なり、例祭六月十五日・九月十九日なり、社邊杉樹鬱蒼たり。
神楽堂、六尺に九尺、本社に向て右にあり。
末社。天王祠、本社に向て右の方にあり。稲荷社、本社に向て左にあり。
別当正覚寺
本社の東に並べり。天台宗、同郡深大寺の末、岳王山と号す、本堂七間に五間南に向ふ、本堂七間に五間南に向ふ、本堂不動木の立像にて長二尺許、開山詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)
北多摩神社誌による日枝神社水天宮の由緒
当神社は天正七年中島筑後守信尚が社殿を造営して鎮祭せりとあるが、境内に柊の老樹があり、景行天皇の御代に日本武尊が東征の際、柊の根元に憩い「清キ土ナリ」とおおせられ、爾来この村を清土と称したがその後、清戸と改められたと伝わる。当時の柊は枯れてその根株より糵(ひこばい)を生じ今日に至る云々とある。したがって日本武尊が祭祀せられたといい伝えられている。境内末社水天宮は安産守護、水難除等の霊験の高きことで知られ「毎月五日月次縁日」には安産祈願の参詣者で賑う。(北多摩神社誌より)
境内掲示「清瀬10景日枝神社・水天宮」による日枝神社水天宮の由緒
日枝神社は戦国時代に、水天宮は明治時代に建てられたといわれており、神社の本殿・三猿の石燈籠・不動明王立像は市の有形文化財に、樹齢400年と推定されているスギの巨木は市の天然記念物に指定されています。
この境内では、毎年7月15日近くの日曜日に、市指定無形民俗文化財「清戸の獅子舞」が行われます。
また、日本武尊が東夷征伐の途中にこの境内で休み「清き土なり」とつぶやいたことから、この清土がのちに清戸になったという伝説が残る地名発祥の地でもあります。(清瀬市掲示より)
日枝神社水天宮所蔵の文化財
- 日枝神社三猿の石燈籠(清瀬市指定文化財)
- 日枝神社本殿(清瀬市指定文化財)
- 日枝神社不動明王立像(清瀬市指定文化財)
- 日枝神社のスギ(清瀬市天然記念物)
- 清戸の獅子舞(清瀬市指定無形民俗文化財)
日枝神社三猿の石燈籠
一基高さ一七一㎝、寛文四年(1664年)造立銘
一基高さ一六四㎝、宝永七年(1710年)造立銘
二基の石燈籠は参道の両側に向い合って建てられ、竿は六角柱でそれぞれに「見ざる」「聞かざる」「物言わざる」の三猿が彫刻されています。日枝神社は山王様と呼ばれて人々に親しまれ、猿は山王様のお使いと信じられていました。
燈籠の竿部に「山王開闢天正七天(1579年)中嶋筑後守信久開之」と彫られ、さらに寛文四年造立の燈籠には山崎傳七良以下、下清戸村11名が、又宝永七年造立のものには中清戸村小寺字佐衛門尉重政の名が刻まれており、中世末から近世にかけて、清戸の開発を知る貴重な手がかりとなっています。(清瀬市教育委員会掲示より)
日枝神社水天宮の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 北多摩神社誌(北多摩神道青年会むらさき会)