龍珠山一峰院|三田雅楽助平将定が開基
一峰院の概要
臨済宗建長寺派寺院の一峰院は、龍珠山と号します。一峰院は、平将門の末裔という三田雅楽助平将定が開基となり、玉英賢韜(応永34年1427年寂)を開山に迎えて応永31年(1424)に創建、江戸期には寺領13石の御朱印状を拝領したといいます。
山号 | 龍珠山 |
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院号 | 一峰院 |
寺号 | - |
住所 | 羽村市羽加美4-12-30 |
本尊 | 十一面観音像 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
一峰院の縁起
一峰院は、平将門の末裔という三田雅楽助平将定が開基となり、玉英賢韜(応永34年1427年寂)を開山に迎えて応永31年(1424)に創建、江戸期には寺領13石の御朱印状を拝領したといいます。
羽村市教育委員会掲示による一峰院の縁起
龍珠山一峰院
臨済宗建長寺派のお寺で、応永31年(1424)三田雅楽助平将定の開基とされ、開山は周防国(山口県)高山寺に住した玉英賢韜です。宝暦九年(1759)に焼失し、七年後の明和三年に再建されました。
寺宝に十一面観音像、不動明王像、承応元年(1652)と元禄期に作られた袈裟、および安永三年(1774)の、近世臨済禅を代表する高僧大林慧昉による「一峰院亀鑑」(住職規則)や、広い地域よりあらゆる階層の人々から寄進された大般若経六百巻などがあります。また境内には経塚や天保年間建立の出羽三山碑もあります。(羽村市教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による一峰院の縁起
(羽村)一峰院
境内、五百坪、御朱印地の内村の東より多磨川の際にあり、龍珠山と號す、禅宗、鎌倉建長寺末、應永年中の起立と云、開山玉英應永三十四年十一月十五日寂す、開基平将門の後胤三田雅楽助将定と云、その位牌とて三汲道正居士應永三十一年と記すものあり、本尊十一面観音、運慶作、木の坐像長二尺許、寺領十三石を附せらる、當院の南の方多磨川岸に小笹生たる平原あり、則御朱印地の内なり、この所に五輪塔あり、苔むして文字もみえず、これぞ三田雅楽助の墳墓なりと云、其側に八幡の小石祠あり、かれが靈をまつりしものといふ。
本堂。八間に六間半南向、龍珠山の三字を扁す、金地院に在し僧元方が書せしもの。
樓門。二間半に二間、樓上に洪鐘を懸、近来の鋳作なり。
山王稲荷社。合殿に祭る、小石祠なり、境内の鎮守。(新編武蔵風土記稿より)
一峰院所蔵の文化財
- 一峰院の鐘楼門(羽村市指定有形文化財)
一峰院の鐘楼門
当門の構造形式は、一間三戸、鐘楼門、入母屋造桟瓦葺(当初は茅葺)であり、正面は南に面しています。建築年代は『諸色写帳』(小林家文書)によると文政2年(1819)頃で、大工は羽村などで活躍した、木野下村(現青梅市)の堂宮大工小林藤馬です。
この門の大きな特徴は、寺院の山門としての楼門(二階に腰縁をもつ形式)と鐘楼を兼ねていて、二階部分が、梵鐘を釣るために一般な楼門と比べて建ちが高く、壁がもうけられていないことです。また、一間門であるにもかかわらず、三ヵ所に扉が付いていることや、すべての柱に各柱を用いていることも珍しい形式です。建築様式は和様を基本として禅宗様との折衷様です。(羽村市教育委員会掲示より)
一峰院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿