八幡八雲神社|八王子市元横山町の神社

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八幡八雲神社|武蔵守小野隆泰が邸内に岩清水八幡宮を勧請

八幡八雲神社の概要

八幡八雲神社は、八王子市元横山町にある神社です。八幡八雲神社は、従四位武蔵守小野隆泰が延長2年(924)邸内に岩清水八幡宮を勧請して創建したといいます。慶長3年(1598)新町板屋ヶ淵において百姓五兵衛が発見した八雲神社を当社内に再建、この八雲神社は大伴妙行が延喜16年(916)川口村深沢山に勧請したもので、祭神(牛頭八王子権現)に因んで地名八王子の由来となった社だといいます。江戸期には、元横山・新町・横山宿・馬乗宿・八日市宿・寺町・横町・本宿の鎮守に、明治維新後は郷社に列格していました。

八幡八雲神社
八幡八雲神社の概要
社号 八幡八雲神社
祭神 誉田別尊、素盞嗚尊
相殿 八王子神
境内社 横山神社、永寿稲荷神社、厳島神社、江島神社、赤星稲荷神社、恵比須大国社
住所 八王子市元横山町2-15-27
祭日 9月15日
備考 -



八幡八雲神社の由緒

八幡八雲神社は、従四位武蔵守小野隆泰が延長2年(924)邸内に岩清水八幡宮を勧請して創建したといいます。慶長3年(1598)新町板屋ヶ淵において百姓五兵衛が発見した八雲神社を当社内に再建、この八雲神社は大伴妙行が延喜16年(916)川口村深沢山に勧請したもので、祭神(牛頭八王子権現)に因んで地名八王子の由来となった社だといいます。江戸期には、元横山・新町・横山宿・馬乗宿・八日市宿・寺町・横町・本宿の鎮守に、明治維新後は郷社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による八幡八雲神社の由緒

(元横山村)八幡社
除地高一石三斗、村の南の方にあり、鎮座の年代は詳ならざれど、社地にたてる槻の木四五株、社を擁つさま新町舟森の古木にさもにたれば、これも横山當祖先の人などの祀る所なるにや、村の鎮守にて、例祭は八月十五日。
相殿。牛頭天王を祀る、これは昔新町の百姓五兵衛と云ものあり、慶長二年六月上旬浅川水溢の後、新町河原の板屋淵と云所の水底に、光るものあるを見るままに取上てみるに、丸鏡などの如きかたちにて、中央に佛像ありければ、携踊りて立臼の上へ假に安置せしが、農桑の時なれば供するものなしとて、とりあへず夢いりて供すと云時に、近隣の小童によりて託宣ありと云り、川口村の鎮守牛頭天王の神體なりと、人々驚き頓て當社の内へ納めり、其日は六月十三日なりければ、是より其日を祭日とさだめ、年々祭儀おこたらず、當村及び八王子の内新町・横山宿・馬乗宿・八日市宿・寺町・横町・本宿の鎮守となり、今にこの日神輿坂屋淵を捗り、新町にてかの五兵衛等が子孫のもの、梦いりを供するは、その故にや、又川口村の元神主も来りて、年々祭事に與ると云、除地高三石五斗なり。(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による八幡八雲神社の由緒

八幡神社は延長二年(九二四)従四位武蔵守小野隆泰武蔵の国司の時、京都石清水八幡宮を邸内に勧請。のち天慶三年(九四〇)武蔵七党の横山義孝武蔵権守の時、社殿再建、横山の庄の総鎮守とした。八雲神社は大伴妙行が延喜十六年(九一六)深沢山々上に牛頭天王として奉斎し、のち北条氏照築城のさい鎮護の神としたが、天正十八年(一五九〇)落城したので黒沢の地に奉安。慶長三年(一五九八)大洪水のため神体流出し、新町板屋ヶ淵において百姓五兵衛が発見し、長田作左衛門の助力により八幡社内に遷座した。承応二年(一六五三)に至り八幡宮と棟を並べて社殿が造営されたので、両社として尊崇された。明治三十年大火により両社殿焼失。大正二年社殿再建合祀した。昭和二十年八月戦災により社殿焼失。(東京都神社名鑑より)

境内掲示による境内社横山神社の由緒

横山神社は、武蔵七党の一つ横山党が「和田義盛の乱」により滅亡した翌年の建保2年(1214)に、開祖横山義孝の御霊を鎮め、八幡神社をお守りする御社として「横山神社」が創建されたといいます。

往古より「多摩の横山」は名馬の産地として世に名を知られており、平安の御代には陽成天皇の私牧(御料牧場)として発達し、延長二年(九二四)武蔵守小野隆泰が横山の地へ石清水八幡宮(現在の八幡八雲神社)を祀り、天慶二年(九三九)「将門の乱」の翌年に勅使牧(国営牧場)となった「横山の牧」に武蔵権之守に任是られた小野義孝は小野姓を横山氏に改め、八幡宮を中心に祭政一致を行い、ここに定住されました。この御方が武蔵七党の一つである横山党の始祖であり、日本における「横山姓」の始まりであります。孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする小野氏一族は小野妹子、篁、道風、小町などの逸材を輩出し、その血筋を引く横山氏は後々の世にまで武士の鏡として数々の「物語」の中に語られております。又、源氏一族との深い結び付きにより代々、源氏の嫡子の誕生に際しては「引目、鳴弦の神事」を行っておりました。
横山義孝の孫、経兼は「前九年の役」(一〇五一〜一〇六二)陸奥守源頼義に従い先陣を賜り敵将安倍貞任の首級をあげ首懸けの儀を担当いたしました。
その子孫たちは保元・平治の乱に参加し、一の谷、屋島、壇の浦の合戦に活躍し「平治物語」にも語られております。又その子孫の横山野新太夫隆兼の子、横山散位権守時重の妹は鎌倉時代の侍所の所司を務めた梶原景時の母であり、時重の娘は侍所の別当和田義盛の妻となっております。
横山一族の男達は義を貫き、勇をもって世の中が平和になるよう鎌倉幕府創業に尽力しました。建久元年(一一九〇)の頼朝上洛のおり、騎馬にての随兵の総数三一八騎、そのうち武蔵出身の武士は約一四〇騎で半数近く、又、横山党の面々は上洛武士の一割を超える三十数騎を占めたという事が「吾妻鏡」に語られております。
正治元年(一一九九)源頼朝の死後、北条一族の台頭により梶原氏が失脚し、和田一族に対する北条の陰謀に、横山右馬介太郎時兼は義憤を感じ、建暦三年五月三日(一二一三)「和田義盛の乱」に荷担し、一族合戦に及びましたが時節利なく横山の人々之討死いたしました。この時累代の所領である横山庄は没収されましたが、時兼の子、野内小名犬房重時は生かされ、その子孫は全国に散り、後の世に武勇を表しました。
乱の後、横山庄は大江広元(鎌倉幕府、政府の別当)の支配となり、一年後の建保二年(一二一四)に開祖横山義孝の御霊を鎮め、八幡神社をお守りする御社として「横山神社」が創建されました。
現在では、八王子の地名発生の神と言われる八雲神社とともに、八幡八雲の両社をお守りする神社として境内にお祀りされ、東京都の旧跡に指定されております。
御神徳といたしましては、家内安全・無病息災・学び事の成就・商売繁盛などがあるといわれております。(八幡八雲神社奉賛会掲示より)


八幡八雲神社所蔵の文化財

  • 横山党根拠地(東京都指定旧跡)

横山党根拠地

横山党は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて存在した武蔵国の武士団です。いわゆる「武蔵七党」の一つであり、その中でも、七〇余りの氏族を含む最大規模の武士団でした。
八幡八雲神社は、横山党の始祖である横山義孝が八幡社を勧請して創建した神社であると伝えられ、この境内付近一帯が横山党の根拠地であったと考えられています。神社本殿横には、義孝を祀った横山神社があります。(東京都教育委員会掲示より)

八幡八雲神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 東京都神社名鑑

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参考資料

  • 新編武蔵風土記稿