中山白山神社|武蔵坊弁慶の血縁・弁智が法華経を奉納した関東七社の一社
中山白山神社の概要
中山白山神社は、八王子市中山にある神社です。中山白山神社は、比叡山西搭の僧武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が平安時代に法華経を奉納した関東七社の一社で、文政9年(1826)にその経巻が発見されているといいます。豊臣秀吉の小田原攻めに際して社殿焼失したものの、木曽村(現町田市)覚円坊の僧頼長権大僧都と大旦那伊藤九郎左衛門により慶長18年(1613)に再建、中山村の鎮守社として祀られ、明治6年村社に列格したといいます。
社号 | 白山神社 |
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祭神 | 伊弉諾尊 |
摂社 | 熊野神社、日枝神社、愛宕神社、稲荷神社 |
境内末社 | 天満宮、金刀比羅神社、秋葉神社、山王大権現 |
住所 | 八王子市中山806 |
祭日 | 9月第1日曜日 |
備考 | - |
中山白山神社の由緒
中山白山神社は、比叡山西搭の僧武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が平安時代に法華経を奉納した関東七社の一社で、文政9年(1826)にその経巻が発見されているといいます。豊臣秀吉の小田原攻めに際して社殿焼失したものの、木曽村(現町田市)覚円坊の僧頼長権大僧都と大旦那伊藤九郎左衛門により慶長18年(1613)に再建、中山村の鎮守社として祀られ、明治6年村社に列格したといいます。
新編武蔵風土記稿による中山白山神社の由緒
(中山村)白山社
社地、一町四方、無年貢地、字宮ノ前にあり、村の鎮守なり、勧請の年代をしらず、棟札に寛永十六年十二月、本願主圓覺院、大旦那伊藤九郎左衛門等、白山権現、本地十一面、宮造立の由をしるす、この時始て祀れるにや、神體は鏡なり、桐の箱に納め、それを石棺にいれて社におく、覆屋あり、二間半に三間南向なり、社地は山上にてここより二町ほどを下りて、又石階二十級あり、その下に鳥居をたつ、例祭は年々八月二十日なりと。
末社。熊野社、稲荷社、愛宕社、山王社。本社の左右にあり何づれも小社なり。
産神。高さ二尺ばかりにて、石劔のごとき石なり、石階の上の左の方にたてり、社はなし。
古石塔。長二尺餘五輪の塔なり、これは覆屋造立の時、後輩の山よりほり出せしものなりと云、文字多く彫りたれど、損壊してよむべからず、ただ山王廿一社の五字仄に見ゆ。
別當常寶院
社地より一町餘、東の方に住めり、木曾村覺圓坊支配の修験なり、先祖の位牌をみるに、皈峯芳山頼長権僧都、元和二年二月廿六日とあり、されば世々の修験者と見ゆ、當社棟札にしるせし所によれば、圓覺印本願主として、造立し、配下なれば、當寶院をしてやしろの司たらしめしなるべし。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による中山白山神社の由緒
創立年代不詳。仁平年間(一一五一-五四)以前の勧請。口碑に往昔比叡山西塔武蔵坊弁慶の結縁者法印僧正弁智誓願を起こし、法華経を謄写し、東国七社へ奉納したという。けだし当社はその一つである。文政九年(一八二六)丙戌正月境内山顚崩壊のさい、現在の本殿所在地点背後の土中から瓶子、神鏡および銅筒数箇が発見された。腐食甚だしく原質お完全なものは銅筒一個のみで、この中に法華経十巻が収められていた。その巻尾に「仁平四甲戌九月二十日武蔵国西郡船木田御所内長隆寺許西谷写之勧進僧弁智」とあった。法華経および経筒は当社に現存。その後、慶長十八年(一六一三)八月二日再建の棟札および、寛永十六年(一六三七)十二月再三築の棟札がある。元文三年(一七三八)戌午正月由木領主勝田山城守藤原朝臣光寛公神鏡を奉納し、かつ石櫃を造営してこれを納めた。神鏡はすなはち本社の神体なりとする。寛政八年(一七九六)十二月徳川家斉公の命を受け、中山に狩するさい勝田安芸守之忠公詠進の和歌一首現存する。(東京都神社名鑑より)
境内掲示による中山白山神社の由緒
創立年代は明らかでないが平安時代に比叡山、西搭の僧、武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の一社であると伝えられていた。
天正十八年(一五九〇)六月、豊臣、北條の戦にあい焼失したが、慶長十八年(一六一三)願主、木曽村(現町田市)覚円坊の僧頼長権大僧都と大旦那伊藤九郎左衛門により再建され、以来明治維新まで中山村の常玉院が別当となった。
江戸時代の白山神社は中山村の鎮守社として、社地一町歩を保有し亦、領主勝田家は敬神の念厚く、元文三年(一、七三八)正月神鏡を奉納し、更に十一代将軍家斉の狩に際して豊猟を祈願し和歌一首を詠進している。
文政九年(一八二六)春、社殿裏の塚より法華経十巻が発見され、その経巻の奥書に大歳甲戌、仁平四年(一、一五四)九月時許於 武蔵国西郡船木田御庄内長隆寺 西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊とあり、村人の伝承が裏付けられたばかりでなく考古学資料として評価されている。
明治初年神仏分離令により常宝院から離れ、同六年十二月由木村々社となり、同四十二年、覆殿、幣殿を新築、昭和三年拝殿を改築し面目を一新した。
昭和二十年十二月国家神道の廃止により、宗教法人として発足し昭和五十年今上陛下即位五十周年にあたり、社殿並びに参道・鳥居を含む大改修を行い現在に至っている。
尚、前期経巻の他、明治・大正・昭和の三代に亘り出土した経筒・鏡・甕は東京都文化財重宝(考古学資料)として、八王子市資料館及び国立博物館に保管されている。(境内掲示より)
中山白山神社所蔵の文化財
- 長隆寺の礎石
長隆寺の礎石
この礎石が何時の頃から白山神社境内に置かれていたのか、あきらかではありません。伝えによると平安時代、中山村に當券された長隆寺のもので、鳥居の近く、字「堂山」にあったものです。長隆寺は当地最古のお寺で、それが存在していたことを実証するもので、この神社の境内から出た経塚出土の経巻と併せて、重要な文化財と考えられます。
石の大きさは、長軸百十センチメートル、短軸八十センチメートル、厚さ三十五センチメートルで、平らな表面を浅い溝で丸く刻み柱座とした素朴なものです。
東大寺・国分寺や奈良時代に建立された寺院の礎石は一般に大きいのですが、平安時代以降のものは小型化しています。
このような点を比較していくことによって、長隆寺の草創年代を解明する手掛りとなるものです。(境内掲示より)
中山白山神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑