由木山蓮生寺|薬師堂の別当、寺領4石5斗の御朱印状
蓮生寺の概要
曹洞宗寺院の蓮生寺は、由木山と号します。蓮生寺の創建年代は不詳ですが、薬師堂の別当として古くからあり、東鑑に記載されている武蔵國蓮生寺ではないかと推測されています。惠鑑(天正2年寂)が曹洞宗寺院として再興したものの、天正16年(1588)に火災により悉く焼失、寛永2年に薬師堂を再興、慶安5年に薬師堂領として寺領4石5斗の御朱印状を拝領していたといいます。
山号 | 由木山 |
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院号 | - |
寺号 | 蓮生寺 |
住所 | 八王子市別所1-19-10 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
蓮生寺の縁起
蓮生寺の創建年代は不詳ですが、薬師堂の別当として古くからあり、東鑑に記載されている武蔵國蓮生寺ではないかと推測されています。惠鑑(天正2年寂)が曹洞宗寺院として再興したものの、天正16年(1588)に火災により悉く焼失、寛永2年に薬師堂を再興、慶安5年に薬師堂領として寺領4石5斗の御朱印を拝領していたといいます。
新編武蔵風土記稿による蓮生寺の縁起
(別所村)薬師堂
村の西北小山田村の境にある山の半腹にあり、前にいへるごとく、この薬師村名のよりて起る所とするときは、古き堂なる事は論をまたず、慶安五年石高四石五斗の地、御寄附の御朱印を賜はり、堂のたてる所もその堂領の内なり、古の堂は大なりしならん、それは天正十六年丙丁の災にかかりしと云、後再造のこと詳ならず、遥の後寛永二年再建せしものこれ今の堂なり、その時の棟札に願主大旦那松平次郎左衛門寄進とあり、大さ四間半四面にて、向拝二間に一間半、東向なり、前に磴道十五間餘あり、相傳ふこの薬師の木像は、往古村内の長池より出現すと、されどこの年代は傳へず、霊験あらたなるを以て、戸帳を堅くし、古より住僧といへども親く拝することを得ず、厨子の大さ三尺四方高さ六尺餘あれば木像もよほど大なるものとおもわる、薬師の左右に又十二神将の木像あり、作しれず、長各四尺五寸餘、内六体は往古よりのものにて、残る六体は天正十六年の回禄にかかりて烏有となりし後、改作せし所なりと云、今その像を見るに、古像の方は面相威望ありて凡工の作とも見へず、年々七月廿二日市あり、又角力を興行せり。
仁王門、堂の正面にあり、三間半に二間、金剛の像長各八尺餘、背後肩のあたりに刻して云、寛永十三丙子年七月小田野源太左衛門周定佛師高橋安藝守とあり、小田野がことは巳に松木村の條に出せり、由木山の三大字を扁す、この額高さ三尺、広さ一尺、惣黒塗にて字には金を抹す、何人の書なることを詳にせず、或は傳ふ、大塔宮護良親王の筆なりとも云、然らば此門は古よりたてる所にして、力士の像のみ後に建立せしなるべし、その額字を見るに筆意凡ならず、いかさま故ある人の筆蹟なるべしと。
別當蓮生寺。
薬師堂の南にあり、由木山と號す、曹洞宗、下柚木村永林寺末寺、傳云、當寺の草創はふるきことにてその年歴は傳へず、昔は天台宗なりしが、天正の比に至りて住僧も中絶、堂宇以下破壊に及べり、時に僧惠鑑中興して今の宗に改しと云、いくほどなく惠鑑は天正二年十二月寂し、ついて同き十六年に野火をこりて、山林延焼し本堂薬師堂ことごとく灰塵となり、記録もまた烏有となり、すべて古の傳へを失へりと云、按東鑑云寿永元年四月廿日庚申圓浄房依召自武蔵國参上、為抽御祈丹精、此間候營中、是為左典厩護持僧、武術御胎内之内、昔加持御帶者也、面平治逆亂以後、出洛陽来武蔵國草創一寺、號蓮生寺為住所と云々、仍且感往年之功、且被優當時懇祈、以田五町桑田五町限未来際寄附彼寺云々、この蓮生寺郡村の名をのせざれば、まさしく當寺のことともいひがたし、されど浄圓坊と號し、又加持を専とせしなどを以みるに、天台宗の僧なるべくおもはる、且當國の内、別に蓮生寺と號する古刹もあらざれば東鑑にいへる所、恐らくは當寺の事なるべし、もし然らば開山浄圓坊は左馬頭義朝が帰依の僧なるを以て、右大将頼朝も籠遇も浅からず、そのかみの寺田もさかんなりしなるべし、今も薬師の別當寺にして、堂領も進退するにより此邊にては然るべき寺院なり。
本堂、九間半に六間、本尊毘盧沙那佛は木の坐像にして、長四尺五寸作しれず、寺僧云、この本尊は改宗以前のものなりと。
鐘楼。本堂と薬師堂との間にあり、七尺四方、鐘大さ二尺五寸、文化五年住僧洞水が鋳し所なり、その大さは昔の鐘にならへりと云、昔の銘文のままを刻せり、その文に、
寛永十三集丙子夏四月、同州八王子之城主、北條陸奥守氏照公之家臣、小田野源太衛門尉藤原周定建立也
銘曰
大法震器、聲揚佛事、発明昏蒙、世傳歓喜
新文の銘もあれど略せり。
宝篋印塔。薬師堂の後にあり、高さ一尺二寸あまり、臺石に寛永十二年と刻せり。(新編武蔵風土記稿より)
蓮生寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」