永林寺|八王子市下柚木にある曹洞宗寺院

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金峰山永林寺|武相卯歳観音霊場四十八ヶ所

永林寺の概要

曹洞宗寺院の永林寺は、金峰山道俊院と号します。永林寺は、由木城主大石源左衛門尉定久公が滝山城へ移るに際して、叔父である一種長純大和尚に当地を譲り、天文元年(1532年)3月永麟寺として創建、八王子城主北条氏照公の助成を受けて天文十五年七堂が欄の完備された大寺院が完成、天正15年後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受けた他、天正19年には徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に10ヶ寺の末寺を擁した中本寺格の寺院だったといいます。武相卯歳観音霊場四十八ヶ所41番です。

永林寺
永林寺の概要
山号 金峰山
院号 道俊院
寺号 永林寺
住所 八王子市下柚木4
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 武相卯歳観音霊場四十八ヶ所41番



永林寺の縁起

永林寺は、由木城主大石源左衛門尉定久公が滝山城へ移るに際して、叔父である一種長純大和尚に当地を譲り、天文元年(1532年)3月永麟寺として創建、八王子城主北条氏照公の助成を受けて天文十五年七堂が欄の完備された大寺院が完成、天正15年後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け、天正19年には徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に10ヶ寺の末寺を擁した中本寺格の寺院だったといいます。

新編武蔵風土記稿による永林寺の縁起

(下柚木村)永林寺
境内三萬三千六十五坪、殿ヶ谷戸の内東の方なる山にそひてあり、金峯山道俊院心月閣と號す、禅宗曹洞派、久米村永源寺の末寺なり、開山の僧長純、俗姓は、大石氏、瀧山の城主源左衛門定久が叔父なり、七歳にして龍穏寺の俊徳和尚に依て得度す、法嗣は上総国真里谷真如寺の開山、蜜山禅師の嫡孫大巌和尚の正傳を得たり、定久深く帰依し、終に長純を開山として當寺を建立せり、天文七年境内の界域を定め、やがて伽藍を造營す、その功を終りしは天文十五年なり、同き十六年入佛供養のとき、定久入道發願の檀那として養子陸奥守氏照助成し、僧千人をあつめて江湖を企つ、首座越後高田の林泉寺第八世宗鎌大法幢を興行す、よりて當寺を古法幢地と號せり、北條氏照の崇敬大方ならず、伽藍再營の企あり、時に家人横地監物・中山勘解由奉行として、七堂伽藍落成し、頗る美を盡せり、これよりさきこの所に大なる池ありしかば、これを埋めて堂宇をたてしと、その標的として奉行二人が旗を植し松二株ありしが、横地が旗をたてし方は慶長の頃枯れしといふ、中山が植し松は今も山門の東にあり、ここに第四世長銀和尚は高徳の僧にて、特に勅して圓應照鑑禅師と諡せらるるに至りしかば、法燈いよいよ煽なり、はじめ開闢ありしより、久しく永麟寺と號せしが、天正の末東照宮此地御経歴のとき、御馬をとめさせたまひ、いかなる寺院ぞと問はせたまふとき、永麟寺と申上しかば、名におへる永き林なりと御褒賞ありて、やがて寺領十石の御朱印を賜ひしは、同十九年十一月なり、その文に橘樹郡永林寺とあり、是より寺號を永林寺とかきかへしとぞ、橘樹郡とあるは一旦の誤りなるべし、この時より金峯山一山不入、古大法幢地、天正十九年十一月日の数字を三面に記せり。
惣門、山林へいる所より五十間ばかりのほど、少しく登りておくにあり、四足門なり、両柱の間九尺、金峯山の三字を扁す。
山門、惣門より内十二間ほどにあり、二間半に四間、永林禅寺の四字を掲ぐ、僧鐵相の書なり、本尊弥勒及び十六羅漢の木像を安す。
中門、唐破風造にて、左右に七間づつの回廊続く。
本堂、南向なり、七間半に十一間半、本尊釈迦長一尺五寸ばかり、左右に文殊菩薩・普賢菩薩の二像を安す、又開山の像あり、左右に道元・寂然二禅師の像あり。
経堂、本堂の背後に在、三間に四間、雑経を蔵す、中央に傳大士を安す。
衆寮、四間に八間、中門の左にあり。
開基大石遠江守定久墓、本堂より西にあたれる山上にあり、石碑は近き頃子孫のものの建る所なり、面に捐館英巌道俊大居士とあり、裏に本國瀧山城、武相十郡領主、大石源左衛門尉定久公、天文十八年己酉二月七日薨去、即埋葬於當郷猿丸山、今文化八年辛未八月七日、現在智海帆叟代本境内也、大石源左衛門尉定久八代嫡流、片野孫兵衛義徳、同主計義昌、同長左衛門義辰、同小兵衛義任、野村外記勝房、定久が假名或は源左衛門といひ、又遠江守としるすもあり、家譜にも遠江守とあれば、後に改めしなるべけれど、源左衛門を以久しく行はれしにより、碑陰にも源左衛門としるせしならん、過去帳を閲るに、定久室、定光院月嶂惠輪禅定尼、道俊の子兵庫頭宗政、法名陽中源雙禅定門、大石信濃守宗虎室、法蓮院夏山妙華禅定尼、氏照室、俗名阿豊天桂院輝容祐光禅定尼、天正十八年六月廿三日とあり、これらの人をも當寺へ葬りしにや、いまだ考へず。
鐘楼、中門につづける回廊の東の方にあり、二間四方、鐘の径二尺五寸、銘文に開山長純のときの鐘は、昔火災にかかりしが、第十一世傳昌住職の時再造せしに、その形状音響ともに美ならずとて、延享二年時の住持西運ふたたび志を起して、新に造りしもの、これ今の鐘なるよしをいひつたへり。
寺寳
笈一、開山長純が手澤のものなり。
袈裟並座具一、開基大石定久、天文六年受戒のとき寄進せし所なりと云、二品ともに金襴にて製せり。
柱杖一、これも法幢のとき、同人の寄附せしものなりと云。
銕鉢一、北條陸奥守氏照寄進せり、以上は皆開山の調度なり。
長刀一、廣重作とあり、大石定久の器なり。
地蔵像一、長三寸八分役小角が作なりと云、これも定久が寄附なり。
茶鑑丁一、定久所持のものなり、その図右の如し。
大鉢一枚、陶器なり、大さ一尺一寸、これも同人寄附なり。
同一、これも陶器にて、同人の寄附なり、大さは二尺。
大茶釜、これも定久が寄進なり。
大鏡、北條氏照室女の寄進なり、大さ八寸、裏面に松竹を擬す、室は黒塗にて、螺螺の書あり、その絵簿に月星なり、写姿の二字を題せり。
辨財天像一体、大黒天像同、毘沙門天像同。右の三体は定久寄進せり、三からだともに行基の作なりといふ。
柏鷲画一幅、氏照の寄附なり、古法眼元信の筆にて、よほどの大幅なり。
龍画一幅、探幽の画なり、土屋相模守政直寄進す。
赤銅大燈臺一、これも同人寄附せり。
古文書三通、大石氏よりの状なり、その文左にのす。(中略)
白山社、山門の西にあり、続なる祠あり。
三社合社、境内鬼門にあたれる山上にあり、第六天山神稲荷をまつれり、これも小社なり、下の四神並に同じ。
三峰社、北の峰にあり。
妙見社、東の峰にあり。
辨天社、北の峰にあり、以上五社は皆境内の鎮守なり。
不動堂、同じ所にあり。(新編武蔵風土記稿より)

「八王子市史」による永林寺の縁起

永林寺(下柚木村―下柚木四)
金峯山道俊院心月閣と号し、久米村永源寺の末寺である。寺名は古く「永麟」と号し、江戸時代御朱印一〇石、境内三万三千坪、曹洞の古法憧地である。開山は長純、開基は大石道俊定久である。長純は俗姓大石氏、定久の叔父に当たり、龍穏寺の俊徳によって剃髪得度し、法は大厳の正伝を嗣いだ。定久は深くこれに帰依し、一寺を建立して開山としたのが当寺である。天文七年(一五三八)境内界域を定め、天文一五年(一五四六)に堂宇がことごとく竣功し、翌一六年(一五四七)入仏大供養を行なった。氏照もまたこの寺を崇敬し、これを再興したものである。
本尊は釈迦如来で、今に心月斉文書二通(戊戌六月二八日および午六月二八日)および氏照文書一通(甲寅八月一〇日)を所蔵する。また境内に大石定久の墓(文化八年 一八一一 八月七日建立)がある。この寺は戦国末期大石氏一族の外護をうけ、寺勢はすこぶる盛であり、多くの門未を有し今におよんでいる。(「八王子市史」より)

境内掲示による永林寺の縁起

金峰山永林寺
永林寺は、大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が滝山城主として滝山城へ移るに至り、叔父である一種長純大和尚に譲り、天文元年(一五三二年)三月永麟寺として創建された。その後八王子城主北条氏照公の助成を受けて天文十五年七堂が欄の完備された大寺院が完成された。
天正十五年後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け護国殿の勅願を受ける。天正十九年九月徳川家康公が当寺に巡拝された折り、朱印十石、公卿格式拾万石を授けられ、赤門の建立が許可された。又、永麟寺の麟の文字を林に変え、現在の永林寺の寺名となり今日に至っている。又、当地域に十ヵ寺の末寺を有する。格地本寺寺院である。
永林寺には、大石家丸に三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、五三の桐、徳川家三つ葵等五つ紋を有しており、往事を偲ぶことが出来る。(境内掲示より)


永林寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「八王子市史」