禪東院|八王子市本町にある曹洞宗系単立寺院

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神龍山禪東院|片倉城主家の出身の禅東海巌禅林創建

禪東院の概要

曹洞宗系単立寺院の禪東院は、神龍山と号します。禪東院の創建年代は不詳ながら、片倉城主家の出身と伝えられる禅東海巌禅林が禅東庵と号して創建、少林寺第二世大室隣徹(元和3年1617年寂)が曹洞宗寺院として慶長年間(1596-1615)に開山したといいます。八王子三十三観音霊場28番です。

禪東院
禪東院の概要
山号 神龍山
院号 禪東院
寺号 -
住所 八王子市本町17-19
宗派 曹洞宗系単立
葬儀・墓地 -
備考 -



禪東院の縁起

禪東院の創建年代は不詳ながら、片倉城主家の出身と伝えられる禅東海巌禅林が禅東庵と号して創建、少林寺第二世大室隣徹(元和3年1617年寂)が曹洞宗寺院として慶長年間(1596-1615)に開山したといいます。

新編武蔵風土記稿による禪東院の縁起

(本宿)禅東院
除地、三段、宿の南にあり、龍横山と號す、曹洞宗にて瀧山少林寺の末なり、昔は禅東庵と云庵にて、僧海巌禅林が草創なりしに、大室林徹と云僧開山として一寺となし、禅東院と號せり、林徹は元和三年三月十八日化す、客殿六間に七間半、本尊釋迦の木像、長一尺六寸を安ず。
観音堂。客殿に向て左にあり、三間四方、十一面観音の立像を安置す、唐佛なりといひつたへり。
鎮守社。境内にあり、神明秋葉稲荷の三座を配祀す。(新編武蔵風土記稿より)

「八王子市史」による禪東院の縁起

禅東院(本宿―本町五七)
少林寺末に属し、元は横竜山または龍王山と号したが、現今は神龍山と改められた。慶長年間(一五九六~一六一四)曹洞宗となった以前は禅東庵と称した。戦災まで本尊は釈迦・文珠・普賢三尊、外に十一面観世音(八王子二十八番札所)、唐がらし地蔵尊・秋葉権現・薬師如来などを奉祀してあった。前記の十一面観世音は寺記および「武蔵名勝図会」「八王子根元記」(元本郷町渡辺家所蔵)によれば毛利大膳太夫が帰依奉納したものとあるが、慶長以前における当山観音堂と毛利氏すなわち長井氏(片倉城主)との間に何らかの関係があったものであろうか。前住禅東庵海巌(当寺開闢)も片倉城主の出であると伝えているが、今日確かな記録はない。また唐がらし地蔵尊は全国三体の一であると称し、寛文一一年(一六七一)八月二四日の建立、古くから八王子名物の縁日に加えられ、往時その祭典はすこぶる盛んなものであったといわれている。八日市宿の寄進である。なお、秋葉権現も八日市宿の持で当寺にあづけられたもので、祭典は毎年九月一日だが、戦災後中止されている。以上の内、本尊釈迦以外二五躰の仏像は昭和二〇年八月の戦災で焼失した。
当寺が曹洞宗以前の前住として禅東海巌・観随天察・天随徳友の名があるが、海巌が片倉城主の出であると伝うる外、現在なんらの記録がない。また当寺所蔵の古板碑二枚あり、その一枚は弥陀三尊の種子の下左右に「光明遍照十万世界・念仏衆生・摂取不捨」と刻まれ、なお、「応永七年正月」と「土橋式部源吉貞」の文字がある。土橋家は当寺の開基檀徒で歴代の幕地も現存している。この応永坂碑は昭和三四年一月八王子市から文化財指定にされたが、最近これについて異議をさしはさむものがあり、その理由として、土橋氏は片倉城主の家臣でなく、武田氏の家臣であると断じ、また板碑に俗姓を刻むことは不当であるとの二つの理由をあげているが、あまり確実な理由でもないが一応研究上の課題となるべきものであろう。ただし現存の土橋氏後裔土橋政局は片倉城主の臣であるとその家系図から確信している。当寺が曹洞宗となったのは慶長年間で、開山は少林寺第二世大室隣徹、示寂は元和三年(一六一七)三月一八日である。中興開基は梅原忠兵衛、法名大巌宗樹居士、正徳三年(一七一三)没である。(「八王子市史」より)


禪東院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 八王子市史

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「八王子市史」