金龍山少林寺|滝山城主北条氏照開基
少林寺の概要
曹洞宗系単立寺院の少林寺は、金龍山と号します。少林寺は、北條氏照の乳母の子柱巌暁暾が、弘治元年(1555)滝山城主北条氏照を訪れ、滝山城の東南にあった竜の池の畔に少室庵を営み開創、その後金龍山少林寺と称して開山したといいます。開基となった北條氏照は天正18年(1590)小田原北條の役で戦死、その後柱巌暁暾は高乗寺9世となっています。江戸期には幕府より寺領25石の御朱印状を受領、近隣に数多くの末寺を擁し、山門・本堂・禅堂・衆寮・開山堂・鐘楼などを備えていました。
山号 | 金龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 少林寺 |
住所 | 八王子市滝山町2-665 |
宗派 | 曹洞宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
少林寺の縁起
少林寺は、北條氏照の乳母の子柱巌暁暾が、弘治元年(1555)滝山城主北条氏照を訪れ、滝山城の東南にあった竜の池の畔に少室庵を営み開創、その後金龍山少林寺と称して開山したといいます。開基となった北條氏照は天正18年(1590)小田原北條の役で戦死、その後柱巌暁暾は高乗寺9世となっています。江戸期には幕府より寺領25石の御朱印状を受領、近隣に数多くの末寺を擁し、山門・本堂・禅堂・衆寮・開山堂・鐘楼などを備えていましたが、宝永年間(1704-1710)の火災により焼失、寺宝の多くを失っています。
新編武蔵風土記稿による少林寺の縁起
(瀧山村)
少林寺
境内、三萬九百坪餘、古城のつゞきにあり、曹洞宗、下椚田村高乗寺末、金龍山と號す、寺領二十五石の御朱印を賜ふ、開基北條陸奥守氏照、天正十八年七月十一日卒、暁嫩桂巌和尚を開山として、弘治元年の秋起立すといふ、今も開山記と云ものあり、其略に云、
享禄三年八月望而産於相州小田原城、藤氏某甲家焉於總世氏剃度、時天文九年四月佛誕日也、聖山祝和尚爲弟子、弘治元年到武州瀧山之城、太守氏照平公探勝地於居城東南之隅、稱龍池有池、其傍設草庵而居焉、名號少室而后亦改造、建立於梵宇、號曰金龍山少林寺、殊栽用靈松爲山門之境、今猶存、諺稱北條七千株之松云云、慶長十四己酉年正月廿日遷化、世壽七十歳也、
この開山記は、寶永年中回禄のとき、灰燼中にありて、僅に存せし古書をあつめて、先住の録し置しものなりしゆへに、和尚の父なる人の假名も傳へず、たゞ寺僧の口碑に傳へたる所によれば、和尚は氏照乳母の子なりと云ふ、
山門迹。寶永年中までは山門ありしが、回禄にあひて後再建に及ばず、大門前杉並木あり、長百二十間餘、
本堂。十間に七間半、向拝二間に二間半、昔は廻廊もありしが、回禄の後は再造に及ばず、本尊釋迦作しれずと、
鐘樓。これも寶永年中焼失して、今はたゞ鐘のみ存せり、鐘經二尺五寸、元禄四年に鑄造せし由を刻めり、
禅堂。五間に四間、
衆寮。七間に四間、
開山堂迹。これも寶永年中に焼亡す開山の事實は已に前に辨せり、
秋葉社。多磨川境の山上にあり、境内の鎮守なり、社は二間に九尺。
瀧池。境内西野山際にあり、開闢の比この池の傍に本堂をつくりしといふ、
子権現社。境内西の山上にあり、社地十坪ばかり限をなせり、村の鎮守なり、
寺寶。
水晶念珠一聯。天正十八年、陸奥守氏照寄附なり、
金襴袈裟一。これも氏照の寄附せり、下の三品におなじ、
茶碗。唐物なり、
茶臼一。
鞍鐙共一具。鞍は黒塗にして、金にて三つ鱗の紋を置く此餘あまた什物ありしが、寶永の回禄に烏有となり、今存するものは纔にその災をまぬかれしものと云、(新編武蔵風土記稿より)
「八王子市史」による少林寺の縁起
少林寺(滝山村―滝山町二ノ六六五)
金竜山と号し、小名滝山八幡宿にある。江戸時代には寺領二五石の朱印であるから相当の待遇であった。開基は滝山城主北条氏照、開山は高乗寺第九世柱巌暁暾である。暁暾は高乗寺第八世聖山大祝の法嗣で、享禄三年(一五三〇)八月一五日相州小田原の藤氏に生れた。この藤氏は氏照の乳母だと伝えられている。天文四年(一五三五)四月八日剃度して聖山大祝の弟子となり、弘治元年(一五五五)二六才のとき滝山城に城主北条氏照を訪ねた。氏照も暁暾とは親密な間関係があるので、附近の勝地を探した結果、幸い城の東南隅に竜の池という池があったので、その傍に草庵を設けて住わせ、少室庵と号していたが、まもなくこれを改造して一寺を建立したいと念顧し、ここに金竜山少林寺を創立したのである。なお、氏照から同寺のために相当の采地田園山荘などの寄進があり、また氏照夫人からも水晶の念珠一聯、茶碾などの喜捨を添え、山門の境域には多くの松樹を記念として植え、後世これを俗に「北条氏七千株の松」と称したほどである。暁暾に対する氏照の尽力および道情のきわめて深厚であったことは十分これでうかがわれる。暁暾は慶長一四年(一六〇九)正月二〇日示寂、享年七〇歳であった。新編武蔵風土記稿によると当時には暁暾について「開山記」の一巻があって宝永年中(一七〇四~一七一〇)の火災の際、ようやくその灰じんの中からみつけ出し保存されているとあるが現存し無い。なお、伽藍についても宝永年中の火災で山門・本堂・禅堂・衆寮・開山堂・鐘楼などことごとく焼失し、同時に大門前の一二〇間余の杉並木も焼失した。鐘楼および焚鐘は元禄年間(一六八八~一七〇三)当寺第九世斧翁重鈯の建立であったことだけ分かっている。宝永の火災は当寺に壊滅的大打撃を与え、その後の復興は十分でなかったが、また明治一〇年一月二六日の火災でわずかに本尊三体・大般若経・過去帳が残ったのみであったが、其後本堂および庫裡が再建されて現存している。
この少林寺の外になお、高乗寺末寺としては東京都町田市相原根岸の行昌寺(高乗寺第五世月中宗掬の開山)、神奈川県相原市橋本の瑞光寺(高乗寺第八世聖山大祝の開山)、埼玉県小川町大字能増大杉の永昌寺(高乗寺第十一世斧山全鈯の開山)の三カ寺があるが八王子市外なのでここに省略する。
また、この少林寺は高乗寺末山中前述のとおり最高の寺格があり、かつての朱印地もその本寺たる高乗寺の一〇石に対して二五石の高額であるから、相当の末寺を擁しており、現存するだけでも八王子市の禅東院・宗徳寺・竜源寺・常福寺・竜谷寺・長昌寺の六カ寺と埼玉県入間河川町の天岑寺で都合七カ寺がある。なお、滝山城および八王子城主北条氏照創立の寺としては前述の心源院系統の宗関寺とこの少林の二カ寺であって、永林寺も氏照およびその重臣横地監物や中山家範らが創立に参加し、熱心に助力しているが、表面は養父大石定久の開基となっている。(「八王子市史」より)
少林寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」